繋げる手がほしかった。
あたしの価値を認めてくれる手を。
あたしの存在を証明してくれる手を。
あたしのことを愛してくれる、誰かの手を。
本当はただ、
寄り添うことの出来る存在が、この手に出来るぬくもりが欲しかった。
暗い空模様の濁った空間の中で、小さくて真っ白い家がぽつんと立っていた。
その軒下には、赤茶けた金の髪の少女──アスカが独りで居た。
アスカは、刺すような冷たさの雨粒たちが落ちる様子をぼんやりと見上げていた。それらは心さえもひやすほどにとても冷たくて、そしてそれに触れると、この手に掴みたかったものたちがすべて、結局は掴むことのできないものなのだとわかった時の悲しみを思い出させた。
──もう、なにもいらない。誰からも必要とされたいなんて、思わない。
いつからここに居たのか、そもそもここがどこなのかわからないけれど、アスカはもう、ここでいいと思った。白いのっぺりとした建物の端に寄り添い冷たい灰色の雨空を見上げながら、アスカはここを自身の終焉の地にしよう思った。
ぱたぱた、と雨の弾む音が聞こえる。
外界を遮断するように、俯いてしゃがみこんでいたアスカに人の形をした影が落ちる。考えることをやめて、瞳を閉じていたアスカはその気配に気がついた。ゆっくりと空ろな瞳を開けて、それを影の元へと向ける。
雨で濡れた白いスニーカー。黒いズボン。視線をあげてゆくと、透明のビニール傘の中の、ほとんど白いシルエットの中にある紅い瞳と視線がかち合う。
アスカは一瞬顔をしかめ、視線は瞳から外したが、それでも地に落ちた影を見ている。その白い色と紅い色が印象の少年は、彼女と目が合うと悲しげに微笑みを浮かべていた。
「やあ、こんにちは」
「あんた、誰よ」
自分ひとりだけの、誰も侵してくるはずのないのところに現れた白い影の訪問者に、アスカは少年の足の近くにある水たまりを見ながら低い声で問いかける。
「今の君には、そんな証明は必要ないんじゃないかな?」
「……そうね」
自分自身以外の存在が今では疎ましいだけのものでしかないアスカは、話はそれで終わったとばかりに口を閉ざした。そして、影からも目をそらす。白い少年はそんな彼女の様子に、それでも微笑みを絶やさなかった。
「まあ、今はそれでもいいさ。……また、来るよ」
また来る?と、眉を寄せるアスカの頭になにかがそっと触れた。それがその少年の手のひらだったと気がついた時には、白い影の少年はアスカに背を向けて、ぱしゃぱしゃと足音を残して雨の中に紛れて行ってしまったあとだった。
またってことは、彼はまたここに来るのだろうか、と思った。だけど、すぐにそれを考えるのをやめてしまった。
自分以外の誰かを気にかける必要なんてない、と頭の中で何回も繰り返す。
自分自身の事さえ、どうでもいいのだから。
ずっとずっと降り続く雨。ここでは昼や夜なんてものは存在していないよう。目の前の景色は、輝く太陽も煌めく星も、仄かに照る月も見せてはくれない。灰色の雲と薄暗いだけの空間の向こうは、雨で霞んでなにも見えない。その中を雨粒たちは下へ下へと落ちて、水たまりにいくつもの波紋を描いていく。
その時までは、忘れていた。彼の事を考えていなかったのだから、きっとそうだったんだと思う。だけど、ぱたぱたという雨の弾かれる音が聞こえた時、アスカの顔はその音に導かれるようにそちらへと向かった。
あの白い少年がビニールの傘をさして、アスカを見下ろしていた。
「約束通り、また来たよ」
「……あんたの一方的な約束でしょ」
「今は、僕の話をもう少しでも聞いてもらえそうだね」
何が嬉しいのか、彼は最初に会った時とは違う、どこか安心したような微笑みの色を浮かべる。
「君の居場所はすぐそこにあるのに、いつまでこうしているんだい?」
突然過ぎる質問に、頭が空っぽだったアスカはいつまで、と心の中で繰り返す。いつまでって……。
「……ここがあたしの居場所よ。いつまでだっていてやるわ」
「確かに、それも間違いではないね。だけど、ここ以外にも君の場所はあるだろう?」
触れられたくないところに触られたようなざわざわとした感覚に、アスカは眉を寄せる。
「ないわよ。あたしにはもう、ここしかないの。だからほうっておいて」
「本当はそう思っていないんだろう?」
頭に、忘れようとしていた記憶のかけらが浮かんでくる。アスカがかつてそこにいた、良い思い出も嫌な思い出もたくさんあった場所。
「なんなのよ、あんたは。あたしのことなんにも知らないくせに」
「そうだね。僕は君のことはまだほとんど知らない。だけど、ここがもと居た場所じゃないことも、君の本来の居場所じゃないことも、君じゃなくてもわかるよ」
「うるさいわね! なんなのよ、さっきから偉そうに! あんたに……あんたなんかに、あたしの何がわかるってのよ!」
勢い良く立ち上がったアスカは、目の前に居る少年をキッと睨み付けた。それに怯んだ様子もなく、まっすぐ見つめ返してくる落ち着いた瞳の色が、アスカの感情を逆撫でる。
「そうよ! 確かに、昔はここ以外にも居場所はあったわよ! あたしにはそこに居ることで、あたしの存在を確かめていた! だけど、もうそれもなくなったのよッ!」
白い少年は怒鳴る声にも怯むこともなく、ただアスカを見つめている。あまりにもまっすぐで静かな視線に怖じ気づきそうになりながらも、アスカは白い少年を睨み続けて居た。
「あたしの居場所ってなんなの? あんたにあたしの何がわかってるっての!? あたしの居場所なんて、そんなの全部なくなったのよ! あたしは……あたしには、エヴァしかないのよ! エヴァに乗って使徒と戦って、そしてそれを倒して人類を守ることが生きている意味だったのよ! それがあたしの全て! あたしが存在している唯一の理由で証明だったのよ! だから……エヴァに乗る必要がなくなった今、あたしの居場所もなくなったし、生きる必要もなくなったのよ!」
一気にまくし立て、興奮で頬を染めたアスカはぜいぜいと息を弾ませる。考えないようにしてきた──自分はもう必要ないという──現実を、自分自身で改めて突きつけたアスカは、急にふくらみを増した悲しみに押し潰されまいとして、しがみつくように制服の青いスカートを両手で力一杯に掴んだ。
その間も、前に居る少年は静かにアスカを見つめていた。だが、その瞳の色はいつの間にか柔らかい光を帯びていた。
「それだけ強い思いをぶつけられる元気は、まだあるみたいだね」
彼は一歩アスカに近づいて、手に持っていたビニール傘を離し、代わりにアスカのスカートを握る両方の手を包み込むようにそっと重ねた。
突然だったので、アスカはびくりと肩を震わせた。一瞬呼吸が止まり、目は大きく見開く。その触れているものは、アスカよりも少し低いくらいの体温なのに、怒りの熱を冷まし、凍りついていた心をゆっくりと溶かしていく。
あがっていた息が徐々に落ち着きを取り戻す。アスカの手の力が抜けて、しわになったスカートを摘むだけになると、彼はそのアスカの両方の手のひらに自身の手のひらを合わせて優しく握りしめる。
それは、アスカの知らないぬくもりだった。
「君には、エヴァだけではない。それに、ここだけだと君が信じこんでいる以外にも、君を必要としている所がある」
「……そんな所、ない」
少年の言葉が、吐き出してからっぽになった心に染みて広がって行く。そして、触れ合う手のひらの感触と温度が、とても心地よかった。
「……目が覚めても、誰もあたしを見てくれない。みんな、あたしをひとりにするのよ」
だから、アスカはうつむいてぽつりと本心をもらした。
「そんなことはないさ。わかりやすい形ではないけれど、みんな君を大切に思っている」
「……」
うそ、と突っぱねる言葉が出てこなかった。なぜか、今は目の前にいる少年の言葉に静かに耳を傾けることができる。
「君がここで終わってしまうのは、みんなが悲しむよ」
アスカの頭に、加持の姿が、シンジの姿が、そしてヒカリの姿が頭をよぎる。それから、ミサト、ファースト、アスカの面倒を見てくれた親戚、ドイツと日本のネルフや学校で知り合った人たち……みんな、あたしが居なくなったら、悲しいと思ってくれるのだろうか。エヴァがなくなったあたしでも、居て欲しいと思ってくれるのだろうか。
少年の片方の手が離れて、それがアスカの頬を撫で何かを拭う。そうされてやっと、アスカはいつからか目じりからこぼれていた感情の存在に気がついた。
「僕も、君がこんなところでひとりで寂しくいるのは、とても悲しいよ」
ハッとして、アスカは顔をまっすぐに前に向ける。少年はアスカと目が会うと、紅い瞳を細めて微笑みを向けた。
「最初の一歩は、怖いかもしれない。だけど、今の君なら大丈夫さ。一歩、踏み出すことができるよ」
少年はアスカから手を離し、後ろへ下がる。そして、落とした傘を拾い上げると空いている片方の手をアスカへと差し出した。
「……おいで」
アスカはどまどい、だけど、冷たくて突き刺さるような雨の中に進んでみる。
それはもう、心の芯までを冷やすものではなかった。少年は、さまよい、探るように伸ばされたアスカの手をしっかりと握りしめて、傘の下へと引き寄せた。
柔らかな、静かな雨の降るだけの何もない空間の中を、一つの傘の下で白い少年とアスカは並んで、ゆっくりと歩いていく。知り合ったばかりの少年と肩の触れ合うほど近くに居る状況なのに、アスカは全くイヤじゃなかった。
そんな、不思議だけど居心地の良い中で、冷静になってきたアスカの中である疑問がわき上がった。
「そういえば、あんたは結局なんなの?」
「僕は使徒だったんだ」
あんまりにもあっさりと言われたので、アスカはその言葉の意味を理解するのに僅かばかりだが、時間を要した。
「ぜんっぜん、そんな風に見えないわよ。ウソつくなら、もうちょっとマシなウソつきなさいよ」
「ふふ。信じるか信じないかは君に任せるよ。……本来の役目を果たしてしまっていて、居場所もない僕は、君がいなくなったら今度こそ消えるだけだろうからね」
ずきり、とアスカの心が傷んだ。そして、なんとなく気がつかないふりをしていたものが、その姿を現した。
「あんたとは、もう会えないの?」
「きっと、そうだね」
返ってきた言葉は、やはりアスカが受け入れたくないものだった。
アスカが急に足を止めたので、少年も一歩進んだ所で止まり、アスカへと振り返った。アスカは、その碧い瞳でじっと少年を見つめていた。
「……また、来るって約束しなさいよ。ウソでもいいから。また来るって、言って」
機嫌を損ね、すねた子どものような態度をしめすアスカと視線を合わせた少年は、困ったように眉を下げる。
「死んでるから消えるしかないって、そんなのわかんないでしょ。そんなこと言ったら、あたしはどうなの? こんな訳のわからない所にいるってことはたぶん、あんたもあたしとほとんど変わらない状況ってことなんじゃない! だいたい、あたしに偉そうにあたしの居場所はここだけじゃない、とか言っといて、あんただけは居場所がないから消えるしかないだなんて言わせないわよ! あんたにだって、どっかに居場所くらいはあるはずよ!」
少年の顔が悲しげに、そして、どこか深く暗いところを見つめるような顔をした。
「さっき言った言葉がウソでなくてもかい? 君たち人類の敵……君が、君の存在を証明するために倒すべきモノだった僕にも、居場所があると?」
「そうよ! だいたい、あんたの正体が使徒だって言うんなら、ちょうどいい場所があるじゃない! あんたは、あたしに倒されるために、あたしの近くで生きてりゃいいのよ!!」
そうやって、強く返すアスカの表情は怒っているのだが、その碧い瞳の色は揺れていた。
彼が例え使徒だったとしても、今のアスカにはどうでもよかった。ただ、この少年と、これっきりになるのが嫌だった。
また会えるという、約束が欲しかった。
少年はきょとんとしてそんなアスカを見つめていた。そして、不意にふっ、とふき出して、くすぐったそうに笑いだした。
そんな彼を見て、アスカはようやく自分が何を口走ったか気がついて「わ、笑うんじゃないわよッ!」とあわてて言う。恥ずかしさに赤くなっているアスカに少年は、笑いが落ち着いてくるとこっくりと頭を縦に振る。
「君は面白いことを言うね。……わかった。約束するよ」
少年は、まだ赤い顔をしているアスカへ距離を縮めると、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「また、来るよ。そして、君が冷たい雨に濡れすぎないように。君がもっともっと、君の道を歩けるように、僕が君の傘になるよ」
少年は顔をすぐ側にまで寄せてくると、アスカの頬にそっと指で触れ、紅い瞳を柔らかに細めた。
ほんの一瞬だったが、二人の唇が触れ合う。突然すぎて、何をされたかわかっていないアスカに少年は耳元へと口を寄せて、彼女にしか聞こえない声で何かを囁いた。愛する人へとするような優しく甘い声を聞きながら、ようやくキスをされたということに気がついたアスカは、違う恥ずかしさのせいで耳まで真っ赤に染まる。
「や、約束、だからね」
「ああ。約束する」
「……ウソついたら針千本飲ませてやるんだから」
「ウソでもいいって言ったのに、その仕打ちはひどいな」
おかしそうに笑い声をあげて、ゆったりとしたしぐさで少年が身を引くと、赤いままになった顔を誤魔化すようにアスカは勢い良く一歩踏み出した。少年もそれに続いて並んで歩き始める。
小雨となった中、少年は傘をたたむとアスカへと手を伸ばす。指先が触れ合い、引かれあうように重なった使徒だと自称する少年の手を、アスカはぎゅっと掴んだ。すると、彼も指に力を込めてそれに応えてくれる。
出来るだけ長くつかんでいたい、この手。
出来るだけ長く覚えていたい、この手のぬくもり。
気がつくと、雨はやんでいた。そして、いつの間にか暗い雲も白い空間もなくなって、代わりに地平線まで続く青空とひまわり畑が広がっていた。その空とひまわり畑の中に一本だけ伸びる道の交わるところから、うっすらと虹が伸びている。
「僕がついて行けるのはここまで。……この先から、君一人で歩くんだ」
ついに、そこに来てしまったんだと思うと、アスカは胸が苦しくなった。離れたくない。もう少しだけ。
だけど、次という約束の為だと。そして、絶対にまた会えると自身に言い聞かせて、アスカはゆっくりと名残惜しそうに──彼もまた、同じように──手の力をゆっくりと抜いていく。
手が離れると、アスカは振り返った。自分がどんな顔をしているかわからないアスカに、少年はにこりと微笑みを浮かべる。
同じように、アスカは精いっぱいの微笑みを返すとくるりと背を向けて、今度は一人で、一歩踏み出した。
歩いて、歩いて虹の方へと進んでいく。柔らかな風の吹く中を、ひまわりの黄色の中をアスカはその髪をなびかせながら、何かを振り切ろうとするように、その歩みをどんどんと速めていった。
虹が近づくと、空の青とひまわりの黄色との境界線がどんどんあいまいになってゆき、地に足を踏みしめる感覚がなくなってきた。そして、ついには自分は足を動かしているのかさえもわからなくなってきた。
ふわふわと漂うような、まぶたが落ちてきて眠りの中へ誘われていくような感覚に身を任せながら、それでもアスカは一度も後ろは振り向かなかった。
もう一度彼の顔を見てしまったら、足が止まって、さきへ進めなくなる気がしたから。
振り向いてしまって、もうそこに誰も居なかったら、イヤだったから。
目覚めてからの一ヶ月の間に、早々と退院も済ませたアスカはほとんど体調が戻り、日常を取り戻しはじめていた。
『あの時』よりも前に時間を巻き戻したような、使徒との戦いの爪痕がまだ残る街。
前と変わらないような日常の中で、前と違うのはネルフに通いつめていた時間の一部が、ヒカリや他のクラスメイトたちと話をしたり、遊びに出かける時間に代わったことだった。
そして、同居しているシンジとミサトたちのと間の空気も。
まだ少しぎくしゃくするものの、シンジやミサトとの仲も良い方へと動きだす。時々はペンペンも交えながら、あれが見たいとか、これはつまらないなどと言いながらテレビのチャンネル権を争ったり、ミサトが久しぶりにカレーを作ると言い出した途端、シンジと二人で「やめて(ください)」と声を揃えてツッコミをいれたりという、前と似たような光景も戻りつつあった。
そんな日常の、ふとした間にアスカは目覚める前に会った、不思議な少年のことを思い出していた。
少年の言った居場所。それはここだったのだろう。確かに、一人にならなかったし、こんな日常も悪くはない。
だけど本当は、あの使徒だと自称した白い彼ともう一度会いたいと、側にいて欲しいと思っていた。はじめて会ったときに見たあの紅い瞳。ある少女を思い起こさせる色ではあったが、その宿る輝きは別のものだった。
あの、紅く輝く瞳をはじめて見たとき、心にぽつり、と何かが落ちて広がった。そのざわめきから生まれてくる想いが怖くて、アスカは最初、逃げるように目をそらしたのだ。
本心を、心に溜まっていたものを全て吐き出して、それでも、彼はその白い手で、アスカの手を優しく握ってくれた。流れた涙を拭ってくれた。
そして、とても甘美な約束を交わしてくれた。
だけど、アスカが僅かの間でさえ側にいて欲しいと思った人はみんなみんな、手に入らないのだ。加持もシンジもそうだった。そして、約束を交わした彼でさえ、その例外でない。
目の覚める前のこと、使徒と名乗った少年とのことは、誰にも言わなかった。
それは、アスカの都合のいい夢だったのかもしれないし、そんな話をしてみて、「あらあら、アスカったら夢の中で白馬の王子さまに会ってきちゃったのかしらー?」なんて、にやにやと笑うミサトにからかわれそうだったからだ。
そして、その可能性も否定できない。そもそも、彼は最初からアスカに好意的過ぎた。
夢なのだとしたら、もしかしてあれがアスカの理想の人だったのだろうか。だけど、加持のような大人でかっこいい男の人が好きだったはずの自分の理想の人が、同じくらいの年頃の、ひょろりとした綺麗な男の子に変わっていたなんて、今だに思えないのだけど。
アスカが目覚めてから二ヶ月ほどが過ぎた日の放課後。人数のまばらになった教室。
教室に残るクラスメイトの雑談の声を遠くに聞きながら、アスカは机にしまいこんでいた学級日誌を机の上に出す。
パラパラとめくり、何日か前の日誌を何気なく眺め、飽きたところで一気に昨日の日付のかかれた所へとページを進める。その次のページに、今日の出来事を箇条書きに簡潔に書いていく。
先に帰ってもいいと言ったが、きっとヒカリは靴箱の辺りでアスカを待っているだろう。さっさと終わらせて、向かわないと。
そんなアスカの机の前に、ひとつの人影が立つ。誰かが前に来ていることに気が付きつつも、ヒカリを待たせたくないからと無視を決め込んだアスカの赤みのかかる金の長い髪を、教室の窓からのやわらかな風がさらさらと揺らした。
「やあ、こんにちは」
ぴたり、とアスカの手が留まる。
ずっとずっと、もう一度聞きたいと願っていたその声に、それはあまりにも似ていた。
黒い制服のズボン、白いシャツ……アスカが恐る恐る──その心の中から一気にわき出た期待を抑えつけながら──顔をあげると、紅い瞳と目があった。どきりとして、呼吸さえ止まる。その瞳は、彼女と目が合ったと知ると、僅かに細められる。
「惣流・アスカ・ラングレーさん」
教室で居残っていた数組のグループの声がやみ、いつからか現れた訪問者に教室の中が静かになっていた。だが、アスカはそれに気がつかなかった。アスカはその碧い目を見開き、少年をじっと見つめている。
「針千本、飲むことにならなくてよかったよ」
ポケットに手をいれたまま肩をすくめてみせ、冗談っぽく言って彼は笑う。そして、突然の訪問者に驚きと好奇心の混じった周りの視線と囁く声に気がついて、不思議そうに視線を投げかけたものの、特に声を掛けられるわけでも無いと判断をしたらしい彼はアスカへともう一度目を向けて、碧い瞳を覗き込んだ。
「正直に言うと、僕はもう二度と君に会うことはないと思っていた。そして実際、君が虹の下へと消えたあとからの記憶が全くないんだ。きっと、僕の役割が終わったから消滅したか、君の世界と一緒に消えたんだろう。だけど、感覚はないのにいつの間にか意識が戻っていて、どこからか声が聞こえたんだ」
アスカは、ただじっとして彼を見つめていた。あれだけ会いたいと、側に居てほしかったと思っていたのに、実際にその願っていたヒトが目の前に来ると、なんの言葉も思い浮かばない。頭が真っ白になっていた。
「君の声が聞こえたんだ。もう一度、会いたいっていう、君の声が。……きっと、君が僕を呼んだから。君が、僕の存在を欲してくれたから、僕はもう一度この世界に存在することを許されたのかもしれない」
かける言葉を見つけられないため、彼を見つめながらずっと黙っているアスカの様子にそろそろおかしいと気がついたのか、少年は首を傾げるとアスカへとその白い顔を寄せていく。
「……もしかして、君は僕のことをもう忘れてしまったのかい?」
「んな! なっ、ち、違うわよ! わ、忘れてなんてないわよ!」
鼻先の触れあうところにまで彼が近づくと、アスカは真っ赤になってのけぞるように身を引いた。そして、長い髪を揺らして首を横に振るアスカに、少年はふ、と口元を綻ばせる。
「それならよかった。なら、他の事もちゃんと覚えているね?」
そう言われて最初に思い出されたのは、両方の手を握られた時の彼の手のぬくもりだった。そして、はじめて他人に吐き出した本心。一瞬の唇の触れ合い。居場所がないと言った彼へ向けた言葉たち。
覚えてる、と呟いて、頬を染め、なんだか気まずそうに少年から視線を逸らすアスカに、彼はアスカの心の中が見えているかのように薄く笑みを浮かべる。
「それもだけど、もっと大切なことがあっただろう? ……すぐに思い出せないのなら、もう一度約束しよう」
アスカのすぐ隣まで移動してきた少年は、片膝を床についてひざまづくと、椅子に座ったままのアスカの片手を取った。アスカは、少年を見下ろす形になって漸く自分たちのいる場所、そして、好奇心の的になっていたことに気がついた。だが、目の前の少年はそれを気にしていないのか、むしろ見せつけているのか堂々としていた。
「な、なにしてんのよ」、と慌てて言いかけるアスカの手の甲に少年は唇を寄せると、そっと口づけた。そうして、彼以外の時間を止めてしまう。
しん、と静まり返った教室の中、恥ずかしさのあまり顔をひきつらせ、耳まで真っ赤に染まった顔を見せるアスカに、くせのある銀の髪を揺らしながら自らを使徒と名乗っていた紅い瞳の少年──渚カヲルは、おっとりと微笑みを向けた。
「次に会ったら、それからはずっと……この命が果てるまで、君のそばにいるよ。君が、僕の唯一の居場所になるんだ」
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