頬を撫でる夏の空気が、そのまま首にも触れていく。
耳に髪飾りの垂れた細工が僅かに触れると、その「いつもと違う姿」ということを改めて思い知らされて、少しばかり気恥ずかしかった。
日本に来てから初めて買った、アスカが一目見て気に入った黄色地に朝顔の浴衣と、赤い色の巾着。
上げた髪には、赤や黄色の中に控えめに紫や白の花の形をいくつも散らせた髪飾り。それを何度か指で触れてみたり、足元を見下ろしたりと、アスカは落ち着かなかった。
カヲルにデートに誘われた。
それは、いつものことといえばそのとおりなのだが、浴衣を着て、髪型まで変えて……と、なると、少しばかり浮かれているようにも思えて気恥ずかしい。
この姿を見た彼は、何か言うだろうか？ そんな僅かな期待も手伝って、アスカは余計に落ち着かなくなってくる。
「待った？」
どきりとしたアスカは、くるりと声のする方へ身体ごと向き直ると、笑顔を向けてくる彼に動揺を隠そうと「待ったわよ！」と言って眉を寄せてみせた。
「こういうときは、女の子の方が準備が遅くってあんたが待たされるもんなのよ！」
「そうなの？」
「そうなの！ なんなのよあんたは、迷子にでもなってたの？ 長風呂とかしてたわけ？」
勢いよく、言葉の追撃をかけようとしてくるアスカにカヲルは笑って流すと、そっとその白い手を伸ばした。
「な、なんで手つながなきゃいけないのよ！」
導かれるように差し出しかけた手をアスカは慌ててひっこめ、くるりとカヲルに背を向けると目的の場所へと歩き出す。
カヲルは少し困ったように──どこか、自嘲気味に──笑って肩をすくめると、行き場を失った手を振って彼女のあとへと続こうと足を踏み出した。
いつの間にかカヲルがいなくなっていたことに気がついたのは、ずいぶんと歩いたあとだった。
あいつの事だから、絶対に後ろをついてきている。アスカは全く疑いを持たずにそう思っていた。
だから、アスカが全くカヲルから話しかけられない事に疑問を持って、そして、そろそろ何か一言くらい言ってあげようかと振り返ったところでようやく、そこにいるはずの姿がまったく見えないことに気がついたのだった。
もう！と、言って、巾着から携帯電話を取り出そうとして、アスカは「うそ」と声をあげた。
今持っている巾着にはサイフとハンカチしか入っていなかったのだ。
アスカは、自身のありえない失態にうめいてから、気を持ち直して辺りを見回した。
どちらかといえば、同い年の中では長身で、良くも悪くも目立つ彼の銀色の髪の色を探して、アスカは歩く。立ち止まることを許さぬ流れをつくる見知らぬ人、ヒト、ひと。
いつの間にか、カヲルが隣にいるということが当たり前になっていたアスカに孤独という不安が顔を覗かせる。アスカを探すために彼女の携帯に電話をかけたカヲルが、彼女がでないことを理由に帰ってしまうかもしれないという最悪の想像を引き連れて。
カヲルから花火を見に行こう、と誘われて、仕方がないから一緒に行ってあげるわよ、というようなことをその時に言って返事をしたのだが、本当はアスカは嬉しかった。カヲルに誘われたことが。きっとカヲルと同じくらい、一緒に花火が見たかった。
アスカは大丈夫よ、と呟いて、慌てて頭を振ってカヲルが先に帰ってしまうかもしれないという不安を追い払った。
あいつはきっと、あたしがいないことに気がついたら嫌な顔はするだろうけど、お祭りが終わってもあたしが確実に帰ったと確認するまでは帰らないだろう。だって、しつこいやつだし。だから、大丈夫。
人がこんなにも同じ場所に集まると、人ひとり見失うなんて容易いことなのだとカヲルは思い知った。
女の子たちの四、五人の集まりがアスカとカヲルの間を縫って横切っていった。たったそれだけの間に、ずんずんと先を進んで行ったらしいアスカを見失ってしまったのだ。
携帯に電話をかけてみたが、コールする音が虚しく流れて行き、伝言へと切り替わるだけだった。
ひとりじゃどこにも行けないような、迷子になって泣いてしまうタイプでは決してないが、カヲルはアスカが本当は心の脆い女の子だと知っている。そんな顔なんて外では決してみせないし、きっと見つけた瞬間「どこいってたのよ！」とか「子どもじゃないんだから迷子になんてならないでよ！」なんて怒鳴りつけてくるという様子がありありと想像できるのだが、今は心細い思いをしているかもしれないと思うとカヲルは気が気でなかった。
そして、違う心配もあった。アスカ本人も容姿については自信のあるほどには自覚しているし、警戒心は持っている意味では安心なのだが、可愛い女の子が一人でいるとよからぬことを考えて近づいてくるヒトもいることも、カヲルは知っている。
──Ａ．Ｔフィールドでアスカの周りの人を弾き飛ばせるなら、そんな心配もしなくてすむんだけど。
焦りからか、冷静の欠いた考えを片隅に置きながら、カヲルは探し人の影を探して人の波の中にもぐりこんでいった。
声をかけられて、考えもなく振り返ってしまったことをアスカは後悔しはじめていた。
アスカの前には、大学生くらいの男が二人。人の良い笑顔を貼り付けてアスカに話しかけていた。
──ねえ、お友だちとはぐれちゃったの？ だったら一緒に探してあげようか？
振り返るなりそんなことを言われたので、アスカは自分の行動を少しばかり恥じた。きっと、傍からみてもわかるほど、取り乱してカヲルを探していたのだろう、と。
相手がアスカのような中学生の女の子ひとりだからか、アスカがどれだけきつめに言葉を返しても彼らはへらへらと笑っていた。そのしまりのない顔がアスカにはとても腹立たしい。
「彼氏とはぐれたって、本当なの？」
「もしかしてその彼氏も、他の子と今頃楽しんでるかもしれないじゃないかな？ そうじゃなくても、その彼氏が戻ってくるまで俺たちと一緒に過ごした方がさみしくないんじゃない？」
「け・っ・こ・う・で・す！」
明らかに嫌だと意思表示をしても、わかっていないのか、気がつかないふりをしているのか全く離れてくれる様子がなかった。
カヲルは今どこにいるのだろうという焦りもだが、目の前の二人の話し方が気に入らない。下心の見えるその視線が不快だ。と、積もってきた苛立ちに任せて、どちらかの顔か腹部にキックでも入れてやってから逃げてやろうかと思ったのだが、蹴りなんて出来るような格好で無いし、人混みと浴衣で足を取られ、確実に逃げ切れるという自信はなかった。
人の流れを避けて道の端に移動していたアスカたちを、何人かの人が様子を窺いながら歩いているのを視界の端に見る。誰でもいいからちらっとでと助け舟でも出してくれないかと少しばかり期待はするのだが、今の所は特に危険も見えないためか、関わり合わないでおこうとすぐに顔をそらす人ばかりだった。
もう、巾着を振り回すか大声を出すか、相手をグーで殴って騒ぎを起こしてやろうかと思っていた時、後ろから急に腕を引かれる。あまりにも突然でやや乱暴だったため、アスカはひゃっと声を上げて、僅かに恐怖さえ感じた。反射的に腕を振り払おうとしたが、その前に後ろからぎゅうっと強く抱きすくめられた。
「僕のアスカを保護してくれていたみたいですね。ありがとうございます」
アスカのすぐ耳元で、感謝の言葉に似合わない冷たい声。
聞いたことのない声音にパッと目を向けると、学生二人に感情の消した無表情な顔を向けるカヲルがいた。
「え？ ……ああ、どういたしまして」
急にこの周りだけ冷たい空気が流れてきたような気がする。学生二人もそれに気がついたのか、一人がもう片方の袖を引きつつ、目配せをしている。
「もう、はぐれたりしないようにね」
言いながらそそくさとアスカたちから離れる二人に、アスカは余計にムカムカとした。なんなのよ、あいつら！ 女相手にしか強気に出られないっての！？
「……大丈夫？」
トゲの落ちた柔らかな声が落ちてきた。腕の力が緩み、カヲルはそっとアスカから離れる。
カヲルを見つけたらどこ行ってたのよ、と怒鳴ってやるつもりだった。だが、実際のアスカはカヲルに素早く振り返ったものの、「大丈夫」だけしか言えなかった。
「何度か電話してみたんだけど、気がつかなかった？」
ため息をつくカヲルを見て申し訳ないような気分もあったが、アスカは少し嬉しくなった。やっぱり、彼はたとえ連絡が取れなくてもさっさと帰るようなやつじゃなかった。
そのことについて返事を返す前に、カヲルはアスカの手を取る。
「今は時間もあんまりないし、まずは目的のところまで行こう」
来るのが遅かったらしく、花火が見えやすい場所はすっかり人の壁が出来ていた。
足が痛い、と慣れない履き物ですこし足の鈍くなったアスカの手を引いて、カヲルは背の高い建物で空が隠れてしまっている場所まで移動してきた。何人かの人の間を縫って行き、ちょうど腰をかけられる階段を見つけると、カヲルは座るように促した。
取り出したハンカチを敷いてからアスカは座って、鼻緒の当たる足の指の間へと目を向けた所でどん、音が響いて、空が明るくなった。
「はじまったみたいだね。……ここでいい？」
「移動したくなったら言うわ」
わかった、とカヲルは言い、建物のシルエットの浮かぶ空へと顔を向けた。
そして、カヲルは一歩、足を踏み出してアスカのすぐそばに立つ。
「君を探している間、とても心配したよ」
ぽつりとカヲルが漏らすと、アスカはカヲルの横顔へちらりと視線を向ける。
「し、仕方ないじゃないの。だいたい、あんたが……」
「悪かったね」
被せるように言って、カヲルはアスカの頭をぽんと撫でる。
「……もう、君のそばを離れないよ」
アスカへと身体を傾けてその手を掴み、カヲルは耳元でそっと囁く。その言葉が、その声が、あまりにも優しく甘いものだったため、アスカは口を噤むと頬を薄く染めた。
アスカの隣にカヲルも座り、建物に遮られて欠けた花火を二人でしばらく見入っていた。
建物のシルエットが空の殆どを埋めるような場所だからか、カヲルとアスカ以外の人影がいつの間にかなくなっていた。
アスカはちらり、とカヲルへと目を向ける。気がついて欲しくない時には妙に鋭いくせに、今はアスカよりもほとんど見えない花火に気が向いているらしい。
掴まれてからずっと繋ぎっぱなしになっていた手を引く。そうしてようやくカヲルは、アスカの視線の先に彼自身が居るのだと気がついたらしく、不思議な顔をしてアスカへと顔を向けた。
「なに？」
「……さ、さっきは……助けてくれて、ありがと」
まっすぐに見つめられると、気恥ずかしくなり、アスカは少し間を空けると頬を赤くしながら小さく言う。
カヲルはきょとんとして瞬きをするが、にやにやと頬を緩めるとアスカへと体を向けて、アスカの額と彼の額をこつんとあてる。
「どういたしまして」
カヲルは視線を落とし、アスカの色づいた頬を指先で何度か撫でる。
「……ホントは、あんたに誘われて嬉しかったから」
急に言われたから、カヲルはまたなんのことかと瞬きをする。そして、花火を見に行こうと言った時のアスカの乗り気でないような表情を顔に貼り付けていたことを思い出したらしい。
「へぇ、そっか。本当は嬉しかったんだ」
意地悪く言うカヲルに、アスカはそ、そうよ……とだけしか言わなかった。そんなアスカの唇に、カヲルは親指でその輪郭を不意になぞる。アスカはどきりとして、肩を小さく震わせた。
「……目を閉じて」
言われるままに目を閉じたアスカに、カヲルは口付けた。
どん、ぱらぱらぱら……と頭上で花火が弾ける。カヲルは軽く触れただけのキスのあと、アスカの下の唇を甘く噛んだ。
アスカの驚きの声がもれる前に彼は唇で彼女のそれを塞ぎ、次は舌で撫でる。アスカは恥じらいと内側からの熱に頬を染め、カヲルの唾液で濡れた唇から甘い吐息をこぼした。
花火の音が遠へ行くような感覚に陥りながら、カヲルから何度も落とされるキスに夢中になっていく。腰の当たりに手を添えて引き寄せられると、アスカは服を掴んでカヲルにしがみついた。
身体の力が抜けてカヲルにもたれかかるだけになったアスカからカヲルは僅かに顔を離すと、彼女の頬に触れる。
「そういえば、浴衣姿の君もいいね。……綺麗だ」
「……い、今更なんなのよ、バカ」
先ほどからの口づけの雨に呼吸を浅くしたアスカは、やっとそれだけを言うと俯いてしまう。
カヲルはくすぐったそうな微笑みを浮かべると、アスカの頬からそっと手を離した。
「ここからだとせっかくの花火もほとんど見えないね。……そろそろ移動する？」
俯いたままだったが、アスカがあまりにも素直に小さい頷くしぐさをしたので、愛しさのこみ上げてきたカヲルはその衝動に任せて、彼女の頬を両手で包み、薄紅に色づいた顔を上げさせると、もう一度キスをした。
人の賑わう喧騒から、道路端に並ぶ屋台の明かりからどんどんと離れて行く。夜の底に浮かぶ提灯の明かりだけが鮮やかに並ぶ中を、二人は並んでアスカの住むマンションに向かって歩いていく。
提灯の列もいつの間にか途切れて、空の星空とぽつぽつと浮かぶ電灯の明かりだけが残る所にまで来ると、アスカの中でひとつのことが終わってしまったような、隙間のできたような寂しい気持ちが膨らんで来ていた。
ぬるい夜の風が、アスカの浴衣の裾をふわりと揺らす。カラコロと響く足音。
マンションに着き、カヲルはアスカたちの暮らす部屋の前までついてきた。二人はずっと手を繋いでいたが、ドアの前にまで来るとカヲルはアスカの手を離した。
「今日は楽しかったよ」
「いきなりはぐれたり、変なやつらに絡まれたり、しかも誰かのせいで、最初と最後の方しか花火見れなかったりしたけどね」
振り返るなり鋭く切り返してきたアスカに、あの後キスに夢中になってしまったカヲルはそうだね、とははっと笑い、瞳を細め首を傾げた。
「なら、来年も一緒に行こうか？ 来年まで待たなくても、また他の所でも縁日でも花火大会もあるだろうし」
「な、何よそれ。さっそく次のデートの誘いってわけ？」
「僕とはもう行きたくないんだ？」
意地の悪い問いかけに、アスカはカヲルを睨むとバカ、と言ってぷいっと顔を逸らした。
「まあ、次に誘う頃までに考えてといてくれよ」
カヲルの指がアスカの頬を撫でる。アスカがちらりと視線を向けると、カヲルはふっとやわらかな笑みを浮かべる。
「じゃあ、僕は帰るよ」
カヲルの指が離れ、彼の視線が外れると、アスカの中で帰り道で膨らんでいた気持ちがまた浮かんできた。まだ、離れたくない。もうちょっと、一緒に……。
その想いがアスカの手を動かし、背を向けたカヲルの服の端をきゅっと握らせる。
振り返ったカヲルの紅い瞳とまともに向かい合い、衝動的にとった行動にアスカは気がついてパッと手を離した。
「な、な、なんでもない！」
言い訳が思いつかずにアスカはそれだけ言うと、袖を掴んでいた手を後ろへと隠した。
己の行動が恥ずかしいのか、カヲルのじっと見つめる視線から逃げるようにそっぽを向いたアスカの顔は赤い。「は、早く帰ったら？」と言うアスカをカヲルは静かに見ていたが、彼女へと向き直ると両腕を伸ばした。
「ふーん、そうか。……君のおかげで、僕は用を思い出したよ」
一歩踏み出したカヲルが両手を広げてぎゅっとアスカを抱きしめる。アスカは息をつまらせた。
「まだ、君が足りない」
隙間なく身体を引き寄せられ、カヲルの体温がより近くなる。アスカの首筋に鼻を寄せ、カヲルはそこにそっと口付けた。ぴくりと震えるが動かないアスカに、嫌がってはいないとカヲルは受け止めると、彼女の背中を撫でながら唇を耳元へと滑らせた。
「……すぐに終われそうにないし、君の部屋に上がってもいい？」
か、勝手にしたらいいじゃない、というような声とともにアスカの手がカヲルの背に添えられる。
カヲルは頬の緩みを抑えずアスカの華奢な身体をさらに強く抱きしめた。
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