何かが上に乗った重みで、アスカの意識が急に浮上した。
 明かりの消えた部屋の天井の端っこは闇に塗りつぶされている。目を開けて闇をぼんやりと眺めたあと、アスカはふぅー、とため息をついた。アスカの上にあるものが一体なにかなんて、起き抜けだけどアスカには検討がついている。
 だけど、顔をちょっと隣へ向けた先に、彼女が思っていたより近い位置に白い顔があったでアスカはぎくりとして寝ぼけていた目を見開いた。
 すぅ、と控えめな寝息が聞こえてくる。いつもアスカを真っ直ぐ見つめる紅い瞳は瞼に隠されて見えなかった。
 こちらへと身体を向けたカヲルの腕が彼を覆う布団から出ていて、アスカの方に掛かっている。まるで、布団ごとアスカを抱きしめるように。
 アスカは少し躊躇して、結局カヲルの腕を彼の方へとよける。そして、時計のある方を見上げて、まだまだ時間がある事がわかると目を閉じた。身体と一緒に意識がゆっくりと沈んでいくような感覚が心地よかった。
 だが、その意識を手放す前にとん、とアスカの上に何かが乗ってきた。
 う……、と不機嫌に唸りながらアスカが見ると、やはり横からカヲルの腕が伸びてきている。
 むくりと起き上がると、カヲルの腕が重力に従ってずるずるとアスカの腹の辺りにまで落ちる。その彼の腕をアスカは掴むと、布団をちょっとめくって彼の方へと押しやった。
 そして、カヲルがみたび腕を伸ばしては来ないかとアスカはその碧い瞳を細くして彼を見下ろすが、暫く経ってもカヲルは動く気配をみせなかった。
 もう大丈夫ね、とアスカはほっと息を吐く。途端に出てきたあくびを隠さないでしてから、カヲルに背を向けて横になろうとすると、途端にカヲルの腕がぬっと伸びてきた。
 もう!とアスカは不機嫌な声とともに起き上がってカヲルへ向き直る。

「ちょっと! あんた本当は起きてんでしょ? いい加減にしなさいよッ!」

 思っていたより大きい声が出てしまったので、部屋にアスカの声が響いた。だけど、怒鳴られている本人はぴくりとも動かない。

「……ちょっとバカヲル。寝たふりなんかすんじゃないわよ」

 つんつん、とカヲルの頬をつついたが、彼は変わらず反応を示さない。
 カヲルはそうした『ふり』をするのが好きなのは知っている。そして、それがなかなか上手なことも。だから、アスカはカヲルは寝たふりをしているものだと思って、じっと睨むような視線を送り続けた。
 いつもだったなら、彼の『ふり』を見抜いて本当に怒っているのだと態度で示せば、カヲルはゆっくりと紅い目を現せて、反省していないような顔で小さくバレた?と言ってから謝ってくる。
 だが、今日の今に限って彼は目を開けない。怒ってんのよ、と言葉で伝えてみても全くだった。
 本当に寝ているのかもしれない。じっとカヲルを見下ろしていたアスカがそう思ったとき、カヲルの右手がアスカの方へと伸びてきた。
 行方を見守るアスカの視線の先で、カヲルの手は何かを探すようにアスカを覆う布団の上をずるずるとさ迷う。しつこいくらいアスカの布団の上を移動するので、気まぐれにアスカが左の指先でそれに触れると素早く捕まれてしまったので驚いた。なんなのよッ、と怒った表情でカヲルを見ると、捕まえたとでもいうような得意気で、だけど嬉しさを隠さない寝顔があった。
 そのままカヲルの手は動かなくなった。アスカはしばらく彼の顔と捕まれた手を交互に見つめたあと、頬を薄赤く染める。

「全く……捕まえたんなら、しっかり掴んでなさいよね」

 捕まえられた手がアスカの心が、このままがいいと言っている。
 だからそう呟いて、アスカは再度横になった。少しそのままで考えたあと、自身を覆っていた布団の端から伝うようにしてカヲルの布団の中へともぐりこんだ。
 きゅっと指先を握って、アスカは向かい合ってカヲルに身を寄せていく。起きたらきっと、自分自身も忘れているだろうから、どちらもびっくりするのだろう。あたしが先に起きたなら知らないふりで布団から出て行って、カヲルがもし先に起きて起こされたならなんて言おうか。
 カヲルの手が何回も伸びてきてうっとうしかったとか、寝ようとしたらあんたがすぐあたしの邪魔をするから…、と言えばいい。ウソは言わないでおこう。だけど、あんたがあたしの手を掴んだ時の顔を見たら嬉しくなったなんて、あんたにずっと捕まえられていたくなった、なんていう事実は言わないでおこう。
 そう決めて、起きたときに忘れてないようにと何回か心の中で復唱していると、小さく、本当に小さな声が頭の上から落ちてきた。
 アスカの名を呼ぶその声は、アスカと二人きりの時にしか聞かせてくれないとても優しい声だった。
 夢の中で、カヲルは夢のあたしと何をしているのだろう。出来るなら、カヲルと同じ夢を見てみたいと思った。






 カヲルは、この起きる時のゆっくりとした時間がなかなか気に入っていた。
 ヒトの気配の薄い時間。静かな時。にぎやかなのが特別嫌いというわけでもないが、元々単体で生きる宿命だったものの性質でもあるのか、カヲルは時々誰も居ない静かで無音に近い孤独を欲した。
 だけど、最近はその孤独の時間と同じくらいに欲しいと思う時間もあった。
 今日は彼女が居た日だっただろうか、とカヲルは目を開けて隣を見る。ぽつん、と彼女が泊まりに来る時に使う枕だけが見えたので、そうか今日は休日じゃないのかとぼそりと呟いた。
 つまらないとばかりに息を吐き、じゃあ今日は一体何曜日だったかと考えながらとりあえず起きようとしたところで、カヲルはパジャマを引かれる重みに気がついた。こんなところで一体何に引っかかるものがあるのかと眉を寄せて見下ろすと、探していた彼女の髪の色があったのでぎょっとする。

「……なんで?」

 そんなふうに呟いてから、ますますカヲルは驚いた。繋がっている二人の手のひらと、アスカが自分の布団の中にすっぽりと納まっていることにようやく気がついたからだった。
 アスカが自分からここに入ってきたのだろうか。だけど、アスカがこうしてカヲルと手を繋いで、もう片方の手でパジャマをしっかりと握ってぴったりと寄り添ってくるというのも、ないことは無いだろうが、考えにくい事でもある。
 どうしようか、起こした方がいいのか、と一度頭をめぐらせたカヲルは、すぐに「まあいいか」で終わらせてしまった。繋いでいた手をそっと離すと、両方の腕をアスカの身体に回してぎゅう、と抱きしめる。
 アスカと会って、彼女とこういう関係になるまで知らなかったものがたくさんあった。そのひとつが、こうして身を寄せ合って、この身で感じることの出来るあたたかさと、そこから生まれる内側を満たすあたたかなもの。それが今、カヲルの腕の中にある。
 二人分のあたたかさの布団の中でじっとしていると、アスカの寝息のかすかな熱が一枚の布越しに伝わってくる。それさえも自分のものにしたいと思ったカヲルは、彼女の後頭部を支えて更に自分の側へと寄せていった。
 首もとにアスカの吐息が直接掛かる。内側のどこかに起こったざわめきを小さなため息に変えて薄く笑みを浮かべたカヲルは、アスカの前髪に鼻をつけて瞳を閉じた。
 まだカヲルの感覚の範囲内には誰も居ない、アスカと二人きりの時間。消えるためだけに存在してきたはずの彼が手に入れた、彼だけのもの。

「……ん」

 急に漏れてきた声にカヲルははっとして腕の中を覗き込む。暗い闇で彼女の顔が良く見えないけれど、その中でもアスカが目を開けたという事だけはわかった。
 じっと、二人は暫く見つめ合う形になった。そして、そのあとにアスカが小さく唇を動かす。
 きょとんとしたカヲルはまじまじとアスカを見つめる。そして、その視線を不思議そうに受け止めていたアスカは、ああっ、と気がついた声を上げた。

「え? 何? ……君って、そんなこと思ってたんだ?」
「あ……ちちち、違うわよッ バカッ! そんな訳じゃなくてこれは……ッ」

 じたばたと手足を動かしながら何かを言いかけるアスカを、カヲルはしっかりと抱きすくめる。にやけてきた顔が抑えきれなくて、それを闇に慣れてきた彼女が見つけたらしくて、一度閉じた口から更に怒った言葉が飛んでくる。
 カヲルの腕を振り解くことも敵わないアスカが、勢いの足りない拳で胸の辺りをとんと叩く。たったそれだけのことが何故か愛しいと感じてしまったカヲルは、彼女のぐっと握られた方の手首を掴むと唇へと引き寄せた。
 指先にキスを落とすとびくっと震えて固まってしまったアスカに、カヲルは薄く微笑んで見せた。

「でも、本当はそんなに違わなくはないんだろ? 僕もさっきからそう思ってたんだ。……つまり、今僕達は両想いって事だね」

 それとも、僕と一緒は嫌なの?と続けると、アスカはうっ……、と呻いて、今度こそ完全に口を閉ざした。
 室内に横たわった沈黙は、カヲルとアスカを、今は二人の存在だけにした。



『このままがいい』

 そうだ。この時がもうしばらくだけ続けばいい、とカヲルは思った。




2011/02/23