部屋の中へと入ると、アスカはカバンを投げるように乱暴に落とした。思っていたより音が響いたが、今はミサトもシンジも居ないので何も言われることはない。リビングでぺったりと床に寝転び、完全にリラックスしていたペンペンだけは、突然の騒音に一体なんだ、とばかりに驚いたかもしれないが。
 明かりを点ける気にもなれず、アスカはそのまま制服を脱ぎ散らかし、部屋着に着替えるとベッドに身を投げた。少し勢いがついて、鼻先を押されたような反発を受けたがそんなことも全く気にならない。
 ただ、頭に浮かぶ映像は時の過ぎた今でもとても鮮明で、それが今のアスカのイライラの原因だった。

 カヲルが、知らない女の子にキスされた。

 アスカとカヲルが付き合っているという話は、二人の周り、学校のクラスの内でなら公認だと思われるほど周知の事実なのだが、その圏外にゆくと知らない生徒の方が圧倒的に多かった。
 それを象徴する事例として、稀にカヲルの席やその付近の机の中に、いつの間にかカヲル宛の手紙が忍ばせてあったり、アスカの靴箱の中にラブレターが入っていたりする。有名であるはずの──単に、アスカがそう思っているだけかもしれない──チルドレンが誰かと付き合っている、そんな話は思っていたより広まりはしないらしい。
 アスカは、ラブレターは読まずにさっさと破り捨てるのだが、それでも顔さえ見たことの無い男の子から呼び出されることがあった。彼女は、その時の気分によって好きな人が居るから、とか率直に言うこともあれば適当にはぐらかす時もある。だが、一度だけ初対面にしてはあまりにもなれなれしく言い寄ってくる男がいて、その時ばかりは頭にきたのか「気安く触るんじゃないわよ、バカ!」と、容赦ない蹴りを一撃、入れてしまったこともある。
 カヲルはどう断っているんだろう、とアスカは考えて、数え切れないくらい繰り返された、カヲルと女の子の後ろ姿という断片が頭を過ぎていった。

 彼は教室に戻るなりアスカに近づいてきて、「勘違いされていたら困るから言っておくけど、キスはされていないよ」と、言った。あまりにも急だったから完全に避けられなかったけど、顔は逸らしたから。頬に口は当たったけど、などと付け加えて。
 アスカはその時、職員室からの帰りでヒカリと一緒に教室に戻る途中だった。そして、階段を上りって角を曲がった所、廊下の真ん中でそれは起こっていた。
 アスカを背にして、女の子はカヲルにくっついていた。そういうわけだから、カヲルの顔は女の子の頭が邪魔をしていて、彼女には彼がどこを向いていたのかはっきりとはわからなかった。だが、それでも二人の頭の位置から何をしているのか察することの出来たアスカの頭は真っ白になり、すぐに言い表す事の出来ない怒りに染まった。
 むっと頬を膨らませたアスカは、何も言わなかった。ちょっと不服そうな女の子が、気がついたようにこちらへと振り向き、困ったように眉を寄せたカヲルの顔を見ても何も言わなかった。
 ただ、むすっとしながらずんずんとカヲルに近づくと、アスカはすばやく片手を振り上げ、頬を平手で引っ叩いた。きゃっ、とすぐ隣で小さな悲鳴が上がったが、アスカはお構いなしだった。
 その剣幕のまま教室にさっさと引っ込むと、アスカはそれ以降貝の如く口を閉ざた。ぱしっとカヲルを叩いた音が教室にも聞こえたのか、教室の中がアスカの暴挙にざわついていたような気がしたが、当事者のアスカの耳には何も入らない。そして、暫くするとおおッ、と、違う興奮の混じったどよめきも聞こえたのだが、気にならなかった。
 そのあと、教室に戻って来たカヲルが話しかけてきても返事はしなかったし、あまりにも唐突な展開についていけなかったらしいが、それでも心配してくれたヒカリがあとから追いついてきて、二人の間に入ってきてくれても、頬杖をついてあさっての方向を見つめていた。カヲルと一緒に居ると気になるはずのクラスメイトの視線でさえも、その時は無関心だった。
 アスカはずっと、カヲルを叩いた手のひらのじんじんとした痛みばかりを思っていた。
 放課後が迫る授業にカヲルから一件、『少し遅くなるけど一緒に帰ろう』、とメールが来ていた。だが、放課後になっても返事も送らず、アスカは教室を出たのだった。

 カヲルが悪いわけではないし、その女の子が悪いわけでもない……と、思う。
 彼の言うことが本当ならば、それはカヲルがその時に出来た最大の回避行動だし、女の子の方だって、その行動はとても大胆ではあるが、その女の子なりの最大の愛情表現だったのだろうから。
 漸く頭が冷えてきて、そう考えることが出来るようになったが、それでも脳裏の映像を思うと腹立だしく思うし、とても悲しく思った。カヲルを叩いた方の手のひらで拳を作ると、ぼふっと枕に振り下ろす。
 突然、何かの振動するような鈍いが響いた。
 はっと我に返ると顔をその方へと向ける。床に落ちていた携帯が薄い闇の中で淡い光を放っていた。彼からだとすぐに分かるよう決めた光。
 アスカはじっとそれを見つめたあと、手を突いてのろのろと起き上がる。ちょっとでもゆっくり動いているうちに、携帯の振動が途切れるのを期待して。
 起き上がって、ずるずるとベッドの端に腰を下ろしたところで留守電へと切り替わったらしい。明かりが消えて、室内が静かになる。アスカはほっとして、また横になろうとしたら再び同じ光が闇の中に浮かぶ。留守電に切り替わった瞬間、彼も一度通話を切ったらしかった。
 一瞬、放っておこうかと思ったが、カヲルなら自分が電話に出れる状態ということに気がついていて、だから粘り強く電話を掛けて来るのだろうと思う。そんな察しの良い、しかも粘り強い彼を恨めしく思いながら、アスカは小さくため息をついた。
 ベッドから降りると、落ちている制服を集めながら携帯を拾い上げる。開いて表れたディスプレイ画面に映る『渚カヲル』の文字を見つめながらベッドの端に腰を掛けて、足元に制服を落とすと通話ボタンをそっと押した。

「アスカ。……よかった、繋がったみたいで」

 カヲルの声が聞こえる。安堵したような。そして、案じるような優しい声だった。

「聞こえているかい? 話さなくてもいいから、このまま僕の話を聞いて欲しいんだ」

 久しぶりにカヲルの声を聞いた気がするのは、それだけあの場面が印象的で、その断片ばかりがずっとアスカの頭を巡っていたからだ。アスカは黙っていたが一応聞いてやるという風に、携帯に耳をそばだてる。

「きっと君は、教室に入ってからは僕のことを全く気にもかけてくれなかっただろうから、何があったかのか全部伝えておくよ。……あの子は、僕に気持ちを伝えてきたよ。僕の事が好きだって」

 彼から言葉で形作られるまでも無く、そういう事だとわかりきっていた。だが……それでも、誰かがカヲルに好きと言っている所を改めて想像させられると、酷く胸が痛んだ。その痛みに眉間にしわを寄せる。
 そして、そんな風に自分からまっすぐ好きと言えないアスカだから、女の子を羨ましくも思った。
 カヲルはアスカのそんな心に気がついているのかそうでないのか、どこまでも優しい声で言う。

「当然だけど、断ったよ。……さっき、凄く怒って行ってしまった素直じゃない女の子しか、僕は愛することが出来ない、って」

 カヲルの言い方を聞く限り、どうやら怒っていた顔はばっちり見られていたらしい。その時は、確かすごく怒っていたから絶対可愛くない顔だった。そんな顔を、よりによって恋敵だった女の子にも見られていたなんて。
 だが、アスカは嬉しいと思った。
 素直じゃないとかは余計なのだが、それでも自分しか好きになれない、と彼は言ったらしい。それは、彼女の中にあった黒い嫉妬心のほとんどを吹き消してしまった。
 カヲルが、怒っていたアスカの所へ来る前に起こった、あの教室内に湧き上がった声。あれはもしかしてこいつのその言葉のせいだったのかとアスカは思い当たり、少し恥ずかしくなった。

「それで、君と一緒に帰る時にその事を伝えようと思ってメールを送ったんだけど……気がつかなかったかい?」

 心というものは、すぐに違う想いでいっぱいになる時がある。正反対の気持ちでさえ。
 ずっと一方的に話しているカヲルの声を聞いているうちに、アスカは彼の顔を直接見たいと思った。
 怒っていた時は、一週間……いや、彼女のその時の気分では何度謝ってきても、一ヶ月は口を利いてやるものかと思っていたのに。会いたいなんて思わなかったし、顔を合わせたらきっと、酷い言葉や心にもない事を彼にぶつけるしか出来ないと思っていたのに。
 彼はまだ何かを言っている。気がつかなかったかもしれないね、君は怒っていたんだから…、と謝っているのだ。しかし、アスカには言葉は届いていなかった。ただカヲルの声が音として耳に入ってくるだけ。
 カヲルに会いたいと思う。そして、出来れば、薄れてもなお残る嫉妬の残骸を完全に消して欲しかった。
 傍に居て欲しい、と。出来るなら、いつのもように目の前で笑いかけて、大丈夫だよ、と頭を撫でて欲しい。そんな甘えたがりの部分の願望が心を急かして、その言葉を吐き出させた。

「          」

 カヲルの声が途切れた。急に、音がなくなったような気がした。
 この僅かの間、お互い何も言わなかった。少なくとも、アスカは自身の言葉に驚いていたので、何も言えなかった。
 え、とカヲルの声が聞こえてきたと同時に、我に返ったアスカは慌てて携帯を切った。あまりにも率直に言ってしまった事の恥ずかしさに。何より、彼の返事を聞くのが急に怖くなった。
 穴があったら入りたかった。先ほどの自分の言葉のせいで、顔が真っ赤になっていた。
 彼が一瞬であれ黙ったということは、つまり、その言葉がしっかりと届いたということ。突然何か言われたのに驚いたのか、手のひらを返すような事を言われて呆れられたのかはわからないが、それでもカヲルは黙ってしまった。
 思い出すのが恥ずかしい。せっかく仲直りできそうだったのに、自分で状況を混乱させてしまったような気がした。
 頭の中で同じ言葉が繰り返される。自分でもらしくない声だったので、とても恥ずかしいアスカは照れ隠しに「もう、バカ!」と怒ったように言うと、勢いよくベッドに身体を倒し、布団を被って顔を枕に押し付けた。
 このまま寝てしまおう、と思い付いた。さっきのは冗談、とメールでさえ打つ気にもなれない。もう、いくら電話が鳴っても今度は絶対に出ないと決めて、携帯の電源は切ってしまった。







 アスカはうっすらと瞳を開いた。目に最初に入ったのは、顔の傍にあった彼女自身の手のひらだった。
 その視界の端っこに、薄い闇の中でこちらに背を向けている影がある。アスカは手から視線を移動させて、ぼんやりとそれを見上げる。
 白い影。銀の髪が上にゆくに連れて薄闇にとけていく。その白いものがなんなのかと気がつくと、アスカはぎゅっと瞳を閉じた。

──な、なんで、いるのよ

 カヲルがいた。アスカの横になるベッドの端に腰を掛けて。
 いつ来たのだろう。玄関の鍵はどうやって開けたのだろう。何より、なんで勝手に自分の部屋にまで上がってきて、しかも許可もなくベッドに座っているのか。
 起き上がって、あんた、人の部屋に勝手に上がってきて、一体何やってんのよ、と文句の一つでも言いたいのだが、アスカは動かなかった。なんとなく、勿体無い気がしたのだ。一体、何が勿体無いのかわかんないけど。
 布地が擦れたような音が聞こえた。
 カヲルが動いたらしい。ほんの少し、冷たい気配が顔に近づく。
 瞼を閉じているからわからないが、彼の手だと思った。それは、暫し宙で留まっているらしかったのだが、顔の近くにあるアスカの手をそっと掴んだ。それはすっかり冷えていたので、アスカはほんの少し震えてしまった。
 それから、カヲルは動かなかった。こちらを見ているのか、そうでないのかわからない。そのうち、掴んでいた手の力がゆっくりと抜けていく。
 手が離れる、と思った。だから、今度はアスカが手を握る。

「……アスカ」

 彼の声が落ちてきた。アスカは答えないで、かわりに指先に力を込める。

「手が冷たくなってしまうよ」

 遠慮がちに、だが抜け出そうとする指をアスカはしっかりと握り締める。離したくなくて、離れたくなくて、布団からもう片方の手を伸ばしてくると、掴んでいるカヲルの手を包み込んだ。

「温かいね」
「いつからそこに居たのかわかんないけど、あんたと違ってあたしはずっと布団に包まってたんだから、冷たいわけないでしょ。……あっためてやってんだから、感謝しなさいよ」

 もはや瞼を閉じている必要がなくなり、開いた目を上へと向けると、瞳を細めて微笑むカヲルが薄闇の中ではっきりと見えた。カヲルの片方の手が知らぬ間に伸びていて、アスカの肩が冷えないように布団を引き上げていた。

「ありがとう。……優しいね、君は」
「あ……当たり前のこと言うんじゃないわよ」

 アスカは赤くなった。自分で感謝しろと言ったものの、言われるままにあっさりと返された言葉たちがとても恥ずかしいと思うのは何故だろう。こいつに言われると特に、だ。

「ところで……まだ、許しは貰えないのかい?」

 きょとんとして、アスカはカヲルを見上げる。何が、と頬を薄らと赤らめたまま表情で返すアスカに、彼は微笑を絶やさない。

「僕は、君に許しを請いに来たんだ。それともうひとつ、僕がここに来た理由……君は忘れてしまったのかい?」

 瞬きを繰り返すアスカに、カヲルはふふ、と笑って唇を耳元に寄せる。その時、アスカの視界の端に彼女の携帯電話が見えた。


──会いたい


 カヲルの声が、彼女自身の思い出した声と重なる。怒っていたこと、そして嬉しかったり、恥ずかしかったりした短いやり取りも凡てはっきりと思い出してしまった途端、あ、と短く叫んで、アスカはぼっと全身真っ赤になった。

「君がそう言ったんだよ。……だから、直接君に謝りに行こうと思ったんだ」

 例え明かりのない室内とはいえまっすぐ顔を見ていられなくなったアスカは、カヲルの手を包む自身の手を凝視した。
 自らがそれをしっかりと掴んでいるのも恥ずかしいと思った。だが、今更離す事が出来るはずも無いし、離したくなかった。どうしようと、とアスカは思うのだが、結局はカヲルの手を握り続けている。

「そう簡単に許してはもらえないだろうね。だけど、僕は例え許してもらえなくても今はここに居たいんだ。……ここに居ても構わないかい?」

 アスカの指先がほんの少し動いた。だが、カヲルの手のひらを離す動きでは無く、それどころかすがるように手を硬く握り締められた。

「ありがとう。君の傍に居るよ」

 了承を得たのだ、とカヲルは受け取ると、アスカの頭をそっと撫ぜた。

「……あ、あんたは」
「なんだい?」
「あんたは……あんたを引っ叩いたり、無視されたこととか、怒ってないわけ?」

 ちょっと素直になって、ふと浮かんだだけの不安さえも口に出せたのは、きっと頭の上にあるカヲルの手のひらのせいだ。安心して身を委ねてしまいたくなる、そんな優しい心地よさ。

「叩かれたのは……君にちょっかいを出して拳で殴られる時より効いたよ。無視をされた方は……少し寂しかった、かな。だけど、怒っていないよ。君も嫌な思いをしたんだろう? 僕もあれから、君があんなに怒った理由を考えていたんだ。そして、例えばもし、僕と君の立場が逆だったらって考えてみて……いい気分ではなかったよ」

 アスカはちらりとカヲルを見た。彼はいつの間にか、何も無い虚空を見つめていた。

「君が誰かに抱きしめられたりしたら、と考えただけでも嫌だった。想像の中とはいえ、君に触れている存在をすぐに引き離したくなった。……だから、その場限りの冗談にしても僕はその男を許せる自信がないよ」

 目を落としたカヲルは、アスカと視線が合うと申し訳なさそうに眉を下げた。

「だから、これでも君の怒りはよくわかったつもりだよ。……悪かったよ。僕がぼんやりしていたせいで、ずいぶん嫌な思いをさせてしまって」

 手を繋いだまま、急にベッドから腰を上げたカヲルは、床に跪いてベッドに横になるアスカと目の高さを合わせた。頭を撫でていた手を今度は髪へと滑らせ、指先で長い髪を梳きながらアスカの顔に顔を寄せると、柔らかく微笑む。

「僕が好きなのはアスカ、君だけだよ」

 アスカは黙って、カヲルを見つめている。

「もう、二度と不覚は取られないようにするから……許してくれないか?」

 カヲルは髪を先までゆっくり梳いた手を、アスカの頬へと移動させた。アスカが冷たくないように配慮したのか、指の先だけを頬に触れさせる。

「……別に」
「……別に?」
「別に……許さないことはないわよ」

 嬉しいと思ったあの時から、アスカはカヲルをとっくに許していた。
 ぽつり、と呟いたアスカは、頬にあたる彼の冷たい手のひらを少しでも温めようとするように、自ら顔をすり寄せた。カヲルはそんな彼女の様子を見つけると、微笑を深くする。
 そんな彼がふいに頭を近づけてきたので、アスカは驚きに瞳を見開いた。

「……口付けても、構わないかい?」
「……は?」

 問いかけてくる頃にはもう、ついばむことの出来るくらい二人の間の空白がなくなっていた。カヲルの吐息が掛かり、アスカは緊張して、彼の手を掴む手に力が篭る。

「ダメかい?」

 囁くようにカヲルは言う。それは低くて、そして甘い声だった。
 アスカは反射的に瞳を強く閉じた。顔が熱くて、頬に手を当てているカヲルはそれに気が付いているかもしれない。だが、それよりも彼の息が、顔のそれより熱く感じる。
 一度だけ、そっとカヲルの唇が触れる。脆いものに対する扱いのように、それはひどく優しかった。
 カヲルが離れたことを感じとると、アスカは恐る恐る瞳を開ける。見上げた先には、愛しいものへと向けられる優しい表情があった。




 いたい