からっぽになりそうな心を満たすこと
カヲルはいつからかつけっ放しとなっていた野球中継の流れるテレビ画面を眺めていて、アスカの方は昨日買ったばかりの雑誌のページをぱらりぱらりとめくっていた。
だが、アスカは殆どそれを見ていない。意識の向いている先は手に持つ雑誌ではなくて、それを越えた先に見える彼だった。
壁に背を預けて座り、立てた膝で雑誌を支えているというやや無理な体勢でいるのは、少し視線をページの右端へと移動させれば床に寝そべっている彼の後ろ姿を確認できるからだ。
カヲルは興味があるのか、テレビへと顔を向けたままじっとして動かない。
いつの間にスポーツ観戦が好きになったんだろう、とくせのある銀の髪を眺める。最近彼はシンジを介すこともなく、他の男の子とも交流するようになっていた。
スポーツとなると……鈴原辺りからの影響かしら、などと勝手に決め付けていた所で不意にカヲルの頭が動いた。慌てて雑誌へと目を向けて素知らぬふりをする。
「アスカ」
名前を呼ばれてから少し長く間を空けて、今初めてあんたの方を見たのよ、というふうを装った顔を上げてカヲルを見た。彼は起き上がっていて、こちらを向いてあぐらをかいている。
「……おいで」
目の合った途端カヲルは柔らかく微笑み、ゆらりと持ち上げた手のひらで呼び寄せる。アスカは何よ? と言いたげな顔を作ってから雑誌を閉じ、それを片手に掴んだまま立ち上がった。
近づいていくと、彼はここにどうぞ、と右の手ですぐ前の床を叩いた。アスカはちょっと距離を空けて床にぺたんと座り込む。
カヲルは二人の間に出来た空間を二度ほど瞬きして見下ろしていたがすぐに動いた。片手を突いて身を乗り出し、アスカの手の中にある雑誌を取り上げる。
「え? …ちょ、ちょっと、何すんのよッ」
何も言わなかったせいかその行動が些か乱暴に思えた。取り返そうと手を伸ばしてみるとカヲルは挑発的にふふっ、と笑いを弾ませながらそれを後ろ手に回す。
返しなさいよ! と意地になってにじり寄り、彼の背に隠された物へと更に腕を伸ばして……気がついた。カヲルの白い顔が近過ぎる事に。お互いの視線が絡み合い、頬にふっ、と吐息が触れた。
ばさり、という音がずいぶん遠くに聞こえる。何かに背中を押されたので前に身体が傾いた。
「あっ」
とっさに倒れ込まないように、と手が出たのだが、それは前に居るカヲルの両肩に触れて指先に力を込めるだけ。身体を寄せて肩を掴んでいる様子は、きっと見る側に立てばアスカがカヲルにしっかりとしがみついているようにしか見えない。
「あ…あ、あんたは! さっきから一体何がしたいのよ!」
両方の腕が身体に回って抱きすくめられてしまっているので、アスカはしがみついた体勢のままカヲルへと顔を向けた。
「……じゅうでん」
じっとアスカを見下ろすカヲルはぽつり、と小さく短い答えを返す。
「………」
「………」
「……は? なんですって?」
今までの行動とすぐ返ってきた単語がどうしても結びつかず、アスカの頭の中で『じゅうでん』の単語がぐるぐると虚しく駆け回る。
「だから、じゅうでん、してるんだよ」
じゅうでん……充電? と、漸く単語の意味が理解できた。だが、充電……。
「……なんの?」
「こころ、さ。……君と離れている時が長すぎると、僕の心がからっぽになってしまうんだ」
照れたり吹き出したりする事もなく、カヲルの表情は真剣だった。あんたバカァ? と、お決まりのセリフで笑い飛ばすタイミングを逃したせいもあり、アスカの方が照れてきた。碧い目を細めてさり気なく顔を横に向ける。
「ったく……いちいち恥ずかしい言い方するわね。あんたの言動に時々ついて行けない時があるわ」
呆れたようにため息を吐いて、努めて素っ気ない声音で返すと、くつくつと笑う声が聞こえてきた。
「うん。そうだろうね。……でも、本当のことなんだよ」
身を絡め取る腕の力は緩まない。カヲルの静かな呼吸が耳に掛かる。
こんな傍にまで来ることを許す関係になってからずいぶん経っているはずなのに、未だに慣れない距離。どきどき、と早い鼓動がくっついている所から伝わっていそうで赤面してしまった。
だが、一方で包まれている今の状態に酷く安心している自分が居る。一秒でも長くこの時が続くことを願い、瞳を閉じて凡てを委ねていたいと思う、心の奥に押し込めている寂しがりの部分が顔を覗かせる。
カヲルはそんな心中を見抜いたように、更に強くアスカを懐に引き寄せた。
されるがままに任せて、アスカはカヲルの肩に顎を乗せるようにして身体の力を抜く。目の前にはまだ、双方譲らずに続く野球中継。その視界の下に見えた黒いガラス戸。それは鏡のように彼の背を映し出していた。
カヲルはゆっくりと身体を横に倒した。視点が下がる。二人は床にごろんと寝転がる。肩に乗せたままだった頭を離すときに、アスカはそれに漸く気がついた。
うつ伏せに寝転がった状態でカヲルはテレビを見ていた。だが、それは「テレビを見ていた」ように見えていただけだった、かもしれないということ。
黒ガラスの反対世界から、アスカが背を預けていた壁が見えた。それはつまり、雑誌から目を離してじっとカヲルを見つめていた自分の姿を、彼が見ていたのかもしれないということ。
「僕の気の済むまでこうさせて欲しい」
床に頭がついて、向かい合わせになるとカヲルはそう囁いた。お互いの額をこつん、と当てると彼はそっと目を閉じる。
「イヤって言っても、どうせあんたはこのままで居るつもりなんでしょ? ……ホント、甘えん坊ね」
目を閉じたままのカヲルの口元が意地悪く緩んだ。……どっちが? と暗に問いかけている。
アスカにもどっちがそうなのかは分かっている。わかりすぎている。だからそれを無視し、
「……バカ」
と、彼に言葉を寄越してからゆっくりとその視界を閉ざした。
充電
|