アスカがそれに気がついたのは、お昼休みも終わる何分か前だった。
 机の中、鞄の中に入れたプリントの間まで何度も何度も探してみたが、探し物は影さえ見せない。




 欲しいもの




 家を出る時の事を思い返す。
 今朝は、起きたのがいつも家を出る時間の10分前だった。飛び起き慌てて着替えを済ますと、髪を梳きながら机の上に置いていた鞄だけを取って部屋を出た。
 その通学鞄の隣に、確かそれは置いてあった筈だ。持って行くのを忘れないように、と。

 こっそりと、忘れた物を渡すはずだった彼へ目を向けると、彼はトウジとケンスケの三人で楽しそうに談笑をしていた。
 それから気がついた。その輪の中にいるはずのシンジの姿がない事に。あれ、と教室を見回すと、いつも窓際の席で静かに本を開いているレイの姿もなかった。




「ねぇ、何か忘れてない?」

 カヲルがついて来ているのは知っていた。いつもの事なので。
 だから、声を掛けられないようにアスカは早足で歩いていたのだが、二人の別れる道に差し掛かると、カヲルは走ってきて前でとうせんぼうをしてきた。

「忘れてない」
「……本当に?」

 真っ直ぐに見つめてくる紅い瞳に後ろめたさを感じて、アスカは視線を落とす。前に立つ彼の片手に下げられている紙の袋が見えた。そこから、包装された箱の先がちらり、と顔を覗かせている。
 今年は止めようと思っていたのだが…仕方が無い。

「……去年と同じよ。その袋の中にあたしのチョコ、ちゃんと入れてるから」




 去年は、直接渡すのが恥ずかしく、また初めて手作りに挑戦したため、形が上手くいかなかった。
 他に手作りのチョコレートをカヲルに渡す子が何人か居た。その、どのくらいの出来のチョコなのかわからないが、自身の崩れたそれと比べられ、もし負けていたら…と考えると、プライドの高い彼女には悔しくて耐えられなかった。
 だから、カヲルが教室を離れた時に、もらい物で溢れた紙袋の中に自分のチョコを突っ込んだ。
 そして、今と同じ状況だった。帰り道に何か渡すものあるんじゃない?、と水を向けられると、アスカはその重たそうな袋の中のどれかよ、と言った。
 え、とカヲルは袋の口をいっぱいに広げて、中を覗き込んだ。

 どれが、と聞かれたが、アスカは言わなかった。おかげでカヲルは、何週間も掛けて小さなものから、箱に何十個も入っているらしいチョコを誰にも分けることもせず、全部食べる羽目になった。
 日持ちのするものは後に回したと言っていた。手作り、要冷蔵の生チョコなど、扱いに気をつけなければならないものから手をつけていったらしい。
 二日ほど過ぎたある日、カヲルの家に遊びに行ったアスカは、まだ残っている紙袋の中のチョコの箱の中に、自分のチョコが見つけられないのでほっとした。
 もしかして、やはり全部は無理だ、という事になって、残ったものと共に自分のものも捨てられてしまうかもしれないと思ったからだ。

 ──全部食べきったよ。

 その報告をカヲル本人から聞いた時、そんなに自分のあげたチョコが食べたかったのか、とアスカはちょっとだけ嬉しく思った。

 それから暫くの間は、チョコの単語が出るだけでカヲルは表情を一変させた。

 全部不味くはなかったらしいが、あの甘い味と、固形が溶けていく感触が口の中に甦るらしい。
 最初は、遠くから雑音に紛れて聞こえる『ちょこ』の単語にさえ、眉間にシワを寄せ、時には胃の辺りを押さえるほど顔色を変えるのが面白かったのだが、眉がひくっと動くのを何度も見ていると段々気の毒になり、アスカはごめん、と心の中で謝るようになった。

 今年は、そういう理由で意地悪はしないでおこうと思っていた。ちゃんとどれかと伝えるか、タイミングが良ければ直接手渡ししてやろうと思っていた。




「………ふぅん」

 思っていた反応と全く違い、気のない返事が聞こえたのでアスカは不思議に思い視線を戻した。視界に入ったのは、見るからに不機嫌なカヲルの顔。

「な、何よ…」
「あのさ、これ……シンジ君のチョコなんだけど」

 今年は、アスカがえっ、と声を上げる番だった。

「え、シ、シンジの?」
「そう。断れなくて受け取ってるうちにこんなになったらしいよ。それで、今日の帰りに他へ寄るところがあるみたいだから、僕は手も空いてるし、アスカと一緒に帰るんだしって事で、ついでに持って行って欲しいって」
「じゃあ、あんたのは? もしかして、今年はあんまり貰えなかったの?」
「いや、前と同じくらい来たよ。……だけど、去年みたいにチョコレートばっかりで数週間過ごすのはごめんだから、君以外からは受け取れないって断ったよ」

 君のだけで十分だったし…、と呟いたカヲルの瞳に、陰りと疑念の色が帯びる。

「……もしかして、去年もそうやってごまかしてないだろうね」
「はぁ? ち、違うわよッ 去年はごまかしてないわよ!」
「去年は、ね……じゃあ、今年は用意してなくて、そうやって誤魔化そうとしてたんだ?」

 何度か瞬きを繰り返したアスカは、疑われていると気がつくと顔色を変えてキッとカヲルを睨みつけた。ずいっ、と一歩分近づいて、二人の間の空白を埋める。

「……バカッ いちいちややこしく考えるヤツねッ …今年もちゃんと用意してたわよ! 今回は去年の事もあったし、ちゃんとあんたに直接渡そうと思ってたのよッ だけど、今日は慌て出てきたから、あたしの部屋に忘れてきたのよッ!」

 急に怒鳴られたカヲルは驚きに僅かばかり目を開いたが、彼女の怒りの波に呑まれる事も無く静かに彼女を見つめる。

「ウソついたのは謝るわよ。だけど、当日に渡せないなんて嫌じゃない! だから、当日渡したフリして、あとであんたのトコに遊びに行く時に、こっそり紛れ込ませようとしてたのよッ」
「……結局、別の日に渡してる事になってるのに?」
「あーもうッ! そーいうところは察しなさいよ、鈍いわねッ」

 怒りと、自身の感情を吐き出したせいか頬が上気し、今にも掴みかかってきそうな勢いでまくし立てるアスカをカヲルはじっと見守っていた。不思議そうに首を傾げる。

「君のこだわりはよくわからないけど……いいや。つまり、今から君のところに行けば、チョコがもらえるってことだね」

 彼にとって、アスカからチョコレートを貰う目的さえ達成できるなら、あとはどうでも事いいらしい。
 ごく自然に腕が伸びて、当たり前のようにアスカと手を重ねる。何よ、と鋭い視線を投げつける彼女に、カヲルは心のトゲを落とすような、穏やかな笑みを浮かべる。行こう、と。




 自室にあったチョコは、窓からの温かく柔らかい日差しを浴びていた。
 …もしかして溶けてるかも、と不安になりながら部屋に進むアスカの後ろを、向かいの部屋に袋を投げ入れてからカヲルは着いていく。
 机の上にちょこんと乗っている包みを、彼女は手に取る。振り返ると、嬉しそうに笑っているカヲルが居たので急に恥ずかしくなってきた。

「去年より、まだ出来は良いほうよ」

 顔を背け、小さな包みを突き出しながらぼそりと言う。
 去年のチョコは彼はどれだったかわからなかったはずで、その言葉から去年も手作りだったと伝えていたようなものだったが、アスカは何か言わないと耐えられなかった。

「返却不可だからね。不味くても食べなさいよ。お腹壊したとか言うのも絶対許さないんだからね。あと、それと…」
「ありがとう」

 あまり聞いていないらしく、ひょいとカヲルは差し出されるもの受け取り、口を結んでいる赤いリボンをそっと解き始めた。
 開いて、袋の中に手を入れると、三つほど入っているはずの透明の小さな包みのうちの一つ取り出した。

「……置いてた場所が悪かったわね」

 個装されたチョコの粒の色が、透明の包みにべったりとくっついている。中の形も、元がなんだかわからないものになっていた。

「………」
「……き、去年の事もあるから、作り直してやってもいいわよ」

 まじまじ、と溶けたチョコを見つめるカヲル。それについて何か言われるのが嫌で、アスカは取り上げようと手を伸ばしたした。が、彼はさっと身を返したので、手のひらが虚しく空を切った。

「いいよ。形とかどうでもいいし」
「……人の努力を無駄にするような言い方でムカつくわね」

 睨みつけてやろうと、アスカは正面に回る。来る事を初めから待っていたかのような、真摯なカヲルの視線とぶつかったので、彼女は睨むことを忘れてきょとんとしてしまう。

「君もややこしく考えるね。…君から貰える事に意味があるから、形はどうでもいいって事だよ」

 言葉を反芻して、意味する所が分かり顔を薄紅に染めていくアスカに、カヲルは顔を寄せる。
 アスカの背に、彼の腕が回る。唇が触れ、すぐに離れると彼女はぎょっとした。

「……な…カヲル?」
「ありがとう」

 一歩、カヲルは後ろに下がった。背を向けて歩き出す彼を見ると、触れていた身体の部分が急速に冷えていくように感じた。

「……もう帰るの?」

 カヲルは振り返った。びっくりした彼の顔を見ると、アスカは自分が今何を言ったのか気がついて耳まで真っ赤に染め上げた。

「…まだ、帰って欲しくない?」
「ち……ちち、違うわよ! そ、そんなこと無いわよッ なんでか知らないけど言っちゃっただけよ!」

 長い髪を揺らして頭を左右に振る。外気と耳との温度差まではっきりわかる。
 カヲルは、彼女の様子にふ、と意地悪く口元を歪めた。

「そ。じゃ、今日は帰るよ。…また明日」
「そ、そうしなさいよッ じゃあね!」

 顔を背けるが、それでも彼がどう動くかとアスカは聞き耳をすましてじっとしていた。
 本当に微かにしか聞こえない足音が遠くに溶けていく。ゆっくりと。
 ドアの開く音を聞くと、身体が細かく震え、身体が二つに分かれる錯覚を覚えた。
 意地を通して佇む自分と、それを投げ出して彼の背を追う自分とが一つの身体を引っ張り合う。
 すっ、と部屋が閉めきられる。それだけで、なぜか誰も居ない空間に一人放り出されたような気がしてぞっとした。
 引っ張り合いの軍配が上がる。名前を呼んでしまったのには気がつかなかった。
 赤茶色の金髪を揺らして振り返ると、アスカは駆け出していた。
 たんッ、と勢いよくドアを開ける。向かいの部屋でなく、白と赤の色彩が目に入ってきたので彼女はぎくっとして立ち止まる。

「……こうでもしないと、本当に素直にならないよね」

 呆れたような、だけど、どこか楽しそうな色を滲ませる声。
 動けないでいるアスカを、カヲルは彼女の手首を掴んで、腕の中へと引き寄せた。

「……待ち伏せてるなんて卑怯なヤツね」
「君が思ってる事と正反対の事を言うからだよ」

 まさか、呼ばれるとまでは思わなかったけど…、と耳の傍でくつくつと笑う声がする。睨みつけようとアスカは肩へ寄せていた顔を上げる。
 すぐ前にあるカヲルの白い顔。口に笑みは残っていたが、紅い瞳は射抜こうとするかのように真っ直ぐだ。それが、睫毛に隠れていく。アスカもそれに従い瞼を閉じた。

「まだだよ、アスカ」

 口付けを終えると、すぐに背を反らし頭を引く彼女を追うようにカヲルは顔を寄せる。アスカの後頭部に手のひらを添え、また軽く触れ合わせた。顔の角度を変えて何度も口付ける。
 しがみつくようにシャツを握り締め、アスカは目を閉じる。
 カヲルは時折薄く瞳を開いて、合間に吐息を漏らし、頬の赤を深めていく彼女の姿を確かめた。