すぅ…、と静かな空間を抜けたのは、彼の寝息だった。
 いつも、目が合えば柔らかなそれに変わる紅い瞳は、今は瞼の奥に隠されている。
 アスカのブランケットを腹の辺りに無造作に掛けただけの姿で眠る、彼女のもっとも愛しい彼。




 名前





 思うままに手を伸ばせば、容易く触れられる距離に二人は居る。
 だが、近くにぺたんと座って、カヲルを見下ろすアスカは動かない。手を伸ばそうとしない。

 ──もう、バカ。さっさと起きなさいよね

 こちらから言わずともすぐに気がついてか、二人になれば彼は手を伸ばしてくれる。頭に手を乗せて撫でてくれたり、頬に手のひらを添えて来たり、片手に彼のそれを重ねてきたと思った時には、お互いの唇が重なっていたりもする。
 キスをされた時は、最初は驚きと恥ずかしさに真っ赤になって怒るのだが、機嫌を直して、とばかりに彼に抱き寄せられると、勢いがなくなる。
 負けたみたいで悔しいが、見つめられ、髪を撫でられていると幸せに心が満ちて、彼のなすがままになってしまう。
 だが今は、カヲルは眠っている。
 触れて貰って、感じることの出来る温もりがないので、寂しがりな彼女は腹立った。

 ──…バカ

 しゅんみん、あかつき…などというどこかの古い言葉を思い出した。どうやら、使徒にも該当するらしい。このヒトの形をした『彼』でしか確認は取れていないのだが。
 最近は、ふと目を向ければ瞼を閉じ、静かな呼吸を繰り返しているような気がする。
 若いと何時間でも眠れるのよねぇー、と言ったのは元同居人。
 彼女がそう言った時、若さとかは全く関係ない気がする、と納得いかずに疑いの眼差しを向けていたのだが…後ろに偶然居た副司令が相槌を打っているのを視界に入れてしまったので、あながち間違いではないのかもしれない。

「……バカ」

 心で悪態を吐いても収まらなくなって、声になった。不機嫌さを現せて、眉間にシワを寄せる。
 何度バカと繰り返しても全く意味が無いのだが……人がこうも焦がれているという時に、気持ち良さそうに寝てるんじゃないわよ、と、半ば当たるような思いばかりが募る。

 窓から抜けて来ていた風が、急に冷たくなった。髪の先がふわりと揺れる。
 寒い、と感じて身を細かく震わせると、素早く立ち上がって窓際へと歩いた。
 日陰特有の冷たくなった空気にもう一度身体を震わせながら窓を閉めると、ぱたぱたと早足にカヲルの元へ戻った。
 早くも温度の下がった指先を温めようと、不機嫌だった事も忘れ、何も考えずに彼の掛けているブランケットに手のひらを突っ込んだ。中指の先が、カヲルの服の端に当たる。
 あまり広くない生地の中は、思っていた以上に暖かい気がした。ほっと、安心したような緩いため息が出た。

「………」

 動けなくなった。まるで、そこに縫い付けられたように、手のひらが動かない。
 向けていた自身の手首から、視線を移していく。まだ意識を夢の中へ沈めているカヲルの顔へ。
 彼の寝顔は穏やかで、おいで、と微笑んでいるように見えた。

 つ、と膝を進めた。静かに、彼を起こしてしまわないように。
 ブランケットの端へ身体を移動させ、入れたままだった手を上げる。今度はいとも簡単に動いた手で、薄い布をめくる。空いた空間へ身体を倒して身体を滑り込ませた。
 元々膝に掛けるためのものなので、二人で入るととても窮屈だし、出ている足先は冷える。身を寄せていないと、身体まで布からはみ出てしまいそうだ。
 心の中で、似たような言い訳を何度もしながら、身体を寄せていく。あと数センチで触れる距離。薄くて、足も肩も布から出ているのに、とても暖かく感じた。
 …本当は、まだ足りない。もっと近くがいい。カヲルの手で触れてきて、もっと距離を縮めて欲しい。

「ったく……ここまで近くに来たんだから、いい加減気がつきなさいよね」

 言葉よりは、少しトゲの少ない声音。
 触れてはもらえないものの、ぬくもりを感じていると、心の波は穏やかだ。
 不意に、目の前のカヲルの唇が僅かに動いた。何か呟いたらしい。
 何?、と瞬いた時、彼の片手が伸びてきて、腕がブランケット越しに背へ回る。ぎゅっ、と急に腕の中に収められたので、えっ、と小さな声が漏れた。

「ちょっ…、ちょっと、カヲルッ!?」
「………」
「……ちょっと…」
「………」
「……カヲル?」

 くー…、との音が返って来た。どうやら、まだ寝ているらしい。
 が、引き寄せられた時に、逃がさない、とばかりに足まで絡められたので、やっぱり起きてんじゃないの、とカヲルの顔をじっと見つめた。しかし、全く目を開ける様子は無い。
 起きないと引っかくわよ、と小さく言っても、眉一つ動かさない。顔が近いせいで、寝息が掛かる。

 つまり、彼は眠っていて、それでも、それが当たり前のように触れてきたという事。

 カヲルの意識が無いことを良い事に、アスカはくすぐったいような小さな幸せに笑みを浮かべる。
 気分が浮くと、普段しないことをしたくなる。アスカは自分から首元辺りに顔を寄せ、頬を擦り寄せた。
 耳の近くで、空気が震える。掠れてはいたが、酷く優しい声が聞こえた。
 少し強くなった抱擁に身を縮めながら、アスカは顔を、カヲルの首筋へ押し付けた。


 寝言で、名前を呼ばれただけだった。ただ、アスカ、と一言だけ。
 だが、自分の名前を愛しく呼ばれたことが、いつも以上に嬉しく思って、アスカは一つ涙を零した。