あちこちで交わされる朝の挨拶を聞いたり、返したりしながら教室に入る
 いつもさりげなく向ける視線の先に居た彼は、その自席の机に顔を伏せていた




 れない理由





 いつもなら、教室に入って目が合うと、薄らと無防備だと感じるほどの笑みを浮かべてくる。それは、とても嬉しそうに。
 照れ臭さに、ぱっと視線を背けて席へと向かう。そこに着く頃には、彼もわざわざ近い距離まで歩いてくる。その前まで、誰と話していようとも中断してまで。
 そうやって彼は隣へとやって来ると、身体を折って顔を覗き込んでくる。

「おはよう」
「……おはよ」



 そんな、いつの間にか当たり前になってしまった朝のやり取り。
 急に途切れると、こうも落ち着かなくなるらしい。気がついたら、銀色ばかりを視界に入れている。
 鞄を置くと、わざとらしくため息をついて、足を向ける。

──そうよ、別に心配してるわけじゃないわよ。ただ、学校来て早々に寝てるバカを起こしに行くだけなんだから。

「ちょっと、カヲル。なに寝てんのよ?」

 傍へ行く者、来られている者がいつもと逆なわけで。第三者の目はほんの一部だが、彼女たちに注がれていた。
 が、その当の本人達はそれに気がつかない。アスカはつん、とカヲルの肩を指先で突付いていたし、カヲルはそれに、頭が揺れるだけの微塵の反応を示しただけだ。

「コラ、バカカヲル。学校に今来たばっかでしょ? まだ授業も始まってないってのに、何もう寝ようとしてんのよ」

 続けて肩を掴んで、軽く揺すってやると、漸く彼の顔が上がる。
 ……白い顔にくっきりと浮かぶ、目の下の黒。書いたのかと思うほどはっきりと白と黒が分かれているので、アスカはぷっと吹き出した。

「あんたねぇ、目の下に凄い隈出来てるわよ」
「……ん」
「……寝不足なの?」
「まあ……そんな所だよ」

 顔は彼女へと向けているのだが、イマイチ焦点が定まっていない。返事を返す声も、どこか大儀そうだ。
 アスカは、呆れた顔を作ると、腰に両手を当てる。

「全く……一体何してたのよ? テレビ見てたの? 読書とか? …あんたの場合は音楽鑑賞でも夜更かし出来そうよね」

 彼女の挙げていくものにいちいち首を振っていたカヲルは、じっとアスカを見つめている。

「どれも違うよ。……君の事考えてたんだ」

 あまりにもさらり、と言われたのでアスカはその言葉を流してしまった。
 が、その放たれた言葉を何度か反芻していると、漸く意味するソレがわかった。頬っぺたと外気の温度差が一気に広がる。

「な…ッ!? …ななな、何バカな事言ってんのよ! へ、変な冗談、言うんじゃないわよッ!」

 きょとん、と驚きに開いた紅い瞳が、今覚醒したばかりだというのに冷静にこちらを見つめている。

「なんで変なの? 本当の事を言っただけじゃないか」
「本当の事なら、尚更ヘンよ! なんであたしの事考えて寝不足になるくらい寝てないのよ!!」

 己の大きな声とその内容に、周りで何事かと様子を伺っていた野次馬の目が、興味津々のそれへと変わる。
 よく見れば、あまりこう言ったくだらない喧騒に興味の示さないレイでさえ、何かと気になるらしく二人へと真っ直ぐな視線を投げかけていた。

「……。ちょっとカヲル。こっち来なさい」

 怒鳴られている事、注目されている事にただ不思議がっている彼の手を掴むと、強引に引っ張って席を立たせた。
 教室を出る前に、じろっと睨む視線で辺りを牽制したものの、顔がまだ赤いせいもあり、どこまで効力があるのかわからない。




 階段を上がって、屋上への扉のある踊り場へと出ると、アスカはカヲルの手を離した。

「君っていつも強引だね。…なんで此処に?」
「教室であんたと話してたら、色々話が面倒になるからよ」

 ため息を吐いて、額に当てていた手を下ろすと、アスカは改めてカヲルと向き合う。…が、急に気恥ずかしくなって、ほんの少し顔を左へと背けた。

「……で? あたしの何を考えてて寝れなかったのよ?」
「何って……君の怒った顔」

 これなら、連れ出して更なる誤解を招くようなマネをせず、教室で聞いてた方がよかったのかも……、とどこか複雑な想いも抱きながら、アスカは気の抜けた息を吐き出す。次いで、肩が落ちて脱力する。

「あ……あんた…ねぇ……それを一晩中考えてたの?」
「それだけなら、もうすぐ寝れたよ」
「…………なら、他に何考えてたっての?」
「……色々だよ。君の笑った顔を思い出したり、君はもう眠ったんだろうかって」

 ……前言撤回。ここでよかった。

「そのうち、会いたいなって思って。だけど夜中に行ったら君は怒るだろうし、下手したら殴られるかもしれない。でも、行けないって思ったら余計に君の顔が見たくなる。会って、今思ってることを伝えたくなるんだ」
「…………」

 無意識に顔が彼へと向けられていた。どきどきどき、と鼓動が自分の中で大きく響いている。

「好きだって。僕がこのセカイに留まる唯一の理由の君に、会いたいって。手に、頬に、髪に触れたい。君が痛がるくらい強く抱きしめたかったんだ、って」

 恥らう様子を微塵も見せずに、カヲルは耳まで真っ赤に染め上げ固まってしまったアスカへと、さらさらと言葉を並べていく。
 それから、ふっ、と自嘲気味に微笑んだ。

「やっぱり、おかしいかな? それをずっと考えていた僕は」

 カヲルの大きめのてのひらが伸びて、アスカの頬に触れる。彼女はびくっと大きく肩を揺らした。
 怯えさせたのかとカヲルは険しく眉を寄せる。手はすぐに下ろされた。

「…そんなに、恐がらなくてもいいだろ?」
「ち、違うわよ」
「じゃあ、なんで震えたんだよ?」
「びっくりしたからよ」
「ふーん、そうなんだ。……なら、今この場で抱きしめて良い?」

 一歩、彼が近づいて影がこちらへと進む。どきり、として勝手に身体が強張った。

「……嫌なら嫌って言えばいいじゃないか。いつもならそう言うくせに、なんで今は言わないの?」

 傷ついたような、歪んだカヲルの表情。怯えさせていると思ってか、一歩進んだっきり動かない。

「……だッ、だから違うわよ! 恐いんじゃなくて……た、ただ…──」

 率直過ぎる想いを伝えられて、必要以上に彼に触れられる事に意識してしまっているだけ。
 そうとは言えずに、代わりにアスカは自らも進み出て、カヲルの身体に身を投げ出した。
 寄りかかるような、身を倒すようにして身体を寄せる彼女に驚いたものの、彼は両手でアスカを抱きとめた。
 背中に回される腕。どちらともなく、ほっと息が漏れた。

「…で。なんで震えてたの?」

 再び落ちてくる声に、しつこい、とだけ返してアスカは目を閉じる。まだうるさく響く自身の鼓動に紛れてしまっている、彼のそれを聞く為に。
 答えが返ってくる事は望み薄だと悟ると、別にいいか、とカヲルはぎゅう、と腕の力を込めながら彼女の髪に顔を埋めた。欲しがっていたものが手に入った子供のように、ふふっ、と嬉しそうに微笑みながら。



 ……階段下で、先ほどから息を殺して様子を伺う、勇気ある数人のクラスメイトに気づきながら。