電車に乗っている時にはぽつり、ぽつりと窓に小さな点を作るだけの雫が、ホームにつく頃には土砂降りの雨に変わっていた。
　半ばうんざりしながら改札を抜け、仕事帰りであろう大人たちの多い人ごみの中を縫うようにして抜け出ると、見知った影が視界に入った。
　赤い傘、小さなビニール袋を手に一つずつ提げ、あちらこちらへと頭をめぐらせている。
　誰かを、探しているように見える……。

　迎え傘

　こちらに全く気が付いていないアスカへと、人に紛れるようにして近づく。
　そうっ、と背後へと回ると、軽く肩をぽん、と叩いた。
　驚きに肩を震わせて、それから勢い良くこちらへと顔を向けた彼女は、碧い瞳を大きく開いた。

「な…か、カヲル！？」
「こんな所で何してんの？」

　思っていた以上の驚き。背後からカヲルに声を掛けられる事が、とても予想外だったかのように。

「な、何もないわよ！　ほ、ほら、ちょっとお菓子と飲み物！　買いに来ただけよッ！」

　何もないなら、ただ此処辺りまでお菓子を買いに来た、と特に怒らなくてもそう言うだけで十分なのに。しかも、この駅に来るまでにも、コンビニはいくらでもあるというのに。
　そんな疑問がありのまま、カヲルの表情に出ているらしい。彼が首を傾げた途端、アスカはもう！と更に声を荒くする。

「だから、何にも無いんだってばッ　……あ、あたし、もう用事済んでるんだから、帰るッ！」

　傘をばさっ、と開くと、彼女はさっさと歩いていく。
　普段なら、すぐにでも後を追いかけるのだが……今の様に、地に落ちた雫が跳ねる程の雨脚の強い中へ出て行くのは、流石に気が引ける。
　ため息をついて、仕方なく視線で彼女を追いかけていると、赤い傘の下から顔を覗かせて、アスカが振り返った。……跳ねた水、歩く勢いに飛ばした泥水を受けて濡れてしまっている足が止まる。
　そして、さきほどの勢いのまま、ぱしゃぱしゃと浅い水溜りを踏み締めて戻ってきた。

「あーもうッ　そんな顔されたら置いて行けないでしょうが！　……ほら、あんたが傘持ってくれるんなら、入れて行ってあげるわよッ！」

　ずずいっ、と柄の部分が前に突き出された。

「……いいの？」
「良くなけりゃ、あのまま放って行くわよ」

　早く持って、じゃないと本当に今度こそ置いていくわよ！と、言わんばかりの鋭くなった碧い瞳。……それとまた違う心中を映すのは、薄紅に染まっている頬と、噛み締めている唇。

「君ってさ……本当に、こういう時は素直じゃないよね」

　彼女の手に、己の片方のそれを重ねて傘を受け取る。一歩、踏み出すとともに掴んでいる手を引く。
　は？と、眉間にしわを寄せて、繋がっている手に戸惑い、それでもすぐに怒鳴ってきそうな雰囲気のアスカをじっと見つめて、少し傘を低くする。赤が照りかえる空間の中、顔を近づけるとさっ、と掠めるだけの口付け。

「………」

　瞠目して、アスカは動かなくなってしまった。怒りのためでない熱が、顔中に集まっているのが見て取れる。
　黙らせる事、彼女を見つけた瞬間に浮上した己の欲求も解消、と思い通りに進んだ事にカヲルは口端を上げる。
　他方の空いている手で傘を掴んで、持ち直した。彼女の手も、その時にそっと離した。

「……行かないの？」

　雨の中へと進んで、上体を傾ける。まだ動けないアスカの目をじいっ、と覗き込む。

「い、行くわよ……行くに決まってんでしょ」

　弾かれたように頭が動く。と、思ったら歩き始めた。アスカが濡れないように、歩きながら肩同士の空白を埋めようとカヲルが動くと、横へ、横へと彼女は離れていく。

「なんで逃げんのさ？」
「あんたこそなんで、そんなに近づいてくんのよ？」
「あんまり離れて歩いたら、君の肩が濡れるだろ。……それに、あとで濡れたって文句言われたくないからね」

　ほら、とカヲルは、半ば強引に彼女の片手を掴むとぐっと引き寄せる。とん、と肩に当たった反動に、少し彼女の身体が揺れるが気にしない。
　狭い傘の中で、二人の距離はとても近くなった。

　あとは、ふたりで黙々歩いた。カヲルの外側の肩の先、腕が、避けきれない雨の雫に打たれる。服が張り付いてくる。

「あたしの部屋に来るなら……タオルくらい貸してやるわよ？」

　突然に呟かれた言葉に、何度か瞬きをする。少し視線を彼女へと向ける。

「ちょうど飲み物も二つ買ってんだし、飲ませてやってもいいわよ？　……お菓子も部屋にもうちょっとだけあるし」
「ふーん……じゃあ、遠慮なくそうさせて貰おうかな」

　まだお菓子があったのに、更に買いに外に出たんだ？と、心の中で呟く。
　こちらへとアスカの頭が動く。碧い瞳がぶつかった途端、彼女はすぐに前へ向いてしまった。

「……なんで目、逸らすの？」
「あんたの顔ずっと見ながら、道なんて歩けないでしょ？」

　確かにそうだが、視線を合わせた途端にあからさまにそっぽを向かれるは嫌だった。少し、瞼を降ろして瞳を細める。

「だからって、目が合ってすぐに前向かないで欲しいんだけど？」
「じゃあ、どうしろってのよ？　ずっと見てるわけいかないのに、あんたと目を合わせちゃったら」

　立ち止まると、彼女はまっすぐにこちらを見つめてくる。今度は、絡めた視線を逸らす事無く、まっすぐ。

「……なら、笑ってよ」
「…………え？」

　暫しの間だけの空白を取ってから、ぽつりと呟いた。
　なんて？、と表情が問いかけに変わる。聞いた言葉が信じられないのか。

「僕と目が合ったら笑って欲しいんだよ。そうしたあとなら、すぐそっぽ向いても構わない」

　まだぽかん、としている彼女。その手を、濡れている側の手でそっと触れた。……いい加減、歩かないと。
　冷たいものが当たって我に返ったのか、彼女は一歩足を出す。それにあわせて、己もゆっくりと歩き始めた。
　結局、肯定の言葉はもらえなかった。だけど、こういう時は素直過ぎる彼女から真っ先に起こる否定の声もなかったのだから、少しは期待できるのかもしれない。


　彼女の住むマンションが、白く霞んだその向こうに見えてきた。
　その今になって、カヲルは気がついた。己のホームに降り立った時に溜まっていた不快な気持ちが、改札を出てアスカを一目見ただけで流されているコトに。

　叩きつけるような雨の日も、そう悪くないのかもしれない。

　彼女がまた──何かを買いに来たなどと偶然を装って──駅の出口で待っていてくれるのならば。
　それに、一度きりかもしれないが、果たされるかもしれない約束を貰えるのならば。

　身体が酷く濡れて、冷え切ってしまっても。
　……彼女がそれに気がついて、冷たくなったこの手を取ってくれるのならば。