昇降口を出ると、外はもう真っ暗だった。

「ったく、何でこんな遅くまでやらなきゃいけないのよー!」
「初回から六時半を過ぎるとは先が思いやられるね……」

 二年A組の体育祭実行委員であるアスカとカヲルが空を見上げてこぼす。
 今日は委員会の初会合があったのだが、役員選出と今後の予定の説明程度で終わるだろうという予想はあっさり裏切られた。委員長・副委員長・担当教師が揃って熱い人物だったのが運の尽きで、体育祭をいかにして成功に導くかという討議を長々と繰り広げられてしまった。ジャンケンに負けて委員になっただけの二人が愚痴るのも無理はない。

「惣流さんの家ってどこだい? 送るよ」
「いい心掛けね。じゃあさっさと行くわよ、早く帰りたいもの」

 アスカの先導で二人は歩き出す。九月下旬の空に月はまだ架かっていなかった。





駆けた






「それにしても、プログラムまで実行委員会で作るなんて驚いたよ。僕が前にいた学校ではそんなに行事に力を入れていなかったからね」
「うちも。生徒の自主性に任せるって言えば聞こえはいいけど、単に丸投げしてるだけじゃないの、これ?」

 二人とも年度途中で転校してきた者同士だが、こうして前の学校について話すのは初めてだった。

「毎回こんな時間までかかるのかしら。めんどくさいわねぇ。あんた、休まないでよ? 私一人で出席なんて嫌だからね?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。さすがに一人では務められそうにない」
「全くだわ」

 顔を見合わせて苦笑する。なかなか多忙な毎日になりそうだという予感が、二人の間に早くも連帯感めいたものを生じさせていた。
 そして予感は当たってしまうのである。





 翌日。実行委員長自らクラスを回って各委員へ渡したアンケート用紙を手に、二人は呆然と立ち尽くす。

「ねぇ、十ページもあるんだけど……」
「一晩でこんなに作ってくるなんてすごいね……」

 周りから同情の視線が集まるが、だったら代われと言ってやりたい。

「渚、私の分も書いといて……」
「それは無理な相談というものだよ、様々な意味で……」





 その次に渡されたのは、クラス全員分のアンケート。

「ここまでくると感嘆に値するね……すばらしい熱意だ」
「だったら後はあんたがやって」

 回収した用紙を数えつつ半眼で睨んでくるアスカに、「それとこれとは別」と苦笑いしてカヲルは首を振る。

「ただ、どうせなら徹底的に励んだ方がいいかもしれないと思えてきたよ。中途半端な志で参加するよりは、ね」
「私はやーよ、こんなことで時間を取られるなんて。さっさと終わらせたい……って、一枚足りないし! 誰よっ、まだ出してないのはっ!?」





 勿論他にも仕事はある。
 誰がどの競技に出るか調整するのも実行委員の務めだ。

「じゃあ、次。リレーに出たい人」

 カヲルが教室内を見回すが、誰一人として手を挙げようとしない。「だって最後の競技だぜ……?」「プレッシャー掛かるよな……」といったヒソヒソ声が聞こえる。
 バンッ!! 大きな音に全員の視線が教壇へ集まった。額に青筋を浮かべながら表面だけはにこやかに、先程打ち下ろした拳を可愛らしく開いてアスカが皆に提案する。

「特に希望者はいないみたいなので、選手は百メートル走のタイムの速い順とします。異論はないわよね?」

 ――もとい、宣告する。
 当然該当する生徒は不平を鳴らそうとしたが、

「な・い・わ・よ・ね?」

 日々の疲れの滲む鬼気迫る表情に、一様に口を閉ざしてしまった。
 帰り道、いつものように彼女を送りながらカヲルはずっと笑っていた。

「だって、人がこんなに苦労してるのに、あいつら全然協力する気ないんだもの! 意地でも頑張らせてやるわ!」
「うんうん、そうだね。惣流さんのおかげで助かったよ」
「私が大変な思いをしている分、あいつらも努力するべきなのよ! 優勝して報いてみせなさいっての!」」

 カバンを振り回しながらの熱弁と明るい笑い声が、夜の街路に響いていった。





 各種目の練習、応援合戦の準備。
 日を追うごとに忙しさは増し、時として不測の事態も起きる。

「足を怪我した!? それじゃ……うん、そうね……一種目くらいは出ておきたいわよね。騎馬戦の騎手なら大丈夫でしょ。じゃあ、登録変更をしておくわ」
「応援に使うポンポンは今日中に作り終わるとして、後は学ランを三着か。誰か、女子に貸してもいいという人は……いや、恥ずかしがらずにそこを何とか頼むよ」





「……あんたさ、家に帰り着くのは何時になるわけ?」

 今日もまた学校を出る頃には暗くなっていて、アスカはカヲルに送られていく。

「随分遅いんじゃない? 逆方向なんだから」

 知った時には焦ったものだ。しかしその時も今も、カヲルは事もなげに言う。

「気にしなくていいよ。女の子を一人で帰らせるわけにはいかないし」
「まぁ、ね。男の義務だもん」
「そうそう、男の義務」

 ほんの少しの間アスカは黙り、それから歩道脇の自動販売機へと足を向けた。

「でも礼儀知らずと思われたくはないから、お礼としてジュースを奢ってやるわ。何がいい?」
「嬉しいな、ありがとう」
「言っとくけど前祝いも兼ねてのことなんだから、調子に乗るんじゃないわよ?」

 硬貨を入れながら彼女はふと、温かい飲み物が用意されるのはいつだろうかと考えた。もうそんな季節になっていた。
 二人はガードレールに並んで寄り掛かってジュースを飲む。

「……明日ね」
「うん、とうとう明日だね」

 自然と感慨が込み上げ、口が重くなる。

「――って、しみじみしてる場合じゃないのよ、明日は絶対に忙しいんだから! 今日で燃え尽きたりしないでよ!?」
「ハハッ、分かったよ、気合を入れ直しておく。無事に乗り切ろうね」
「当たり前よ! でなきゃ何のために頑張ってきたか分からないじゃないの!」

 最初は確か頑張りたくないと――と二人とも思ったが、わざわざ口には出さなかった。





 翌日、体育祭は盛大に開催された。
 二年A組は三位に入賞。大健闘といえる。応援合戦でも優秀クラス賞を獲得し、歓喜に沸いた。
 閉会後には実行委員会総出で後片付け。そのまま簡単な解散会も行われた。感極まって三年女子が泣き出すと、たちまちもらい泣きの輪が広がり、これまでの苦労を皆でねぎらい合った。
 終わってみれば全てはよい思い出だった。

 一つだけ、思い出で終わらせたくないものもあったが。





「お疲れ!」
「お疲れさま」

 鈍い音を立ててプラスチック容器が打ち鳴らされる。
 いつものように帰る途中でファーストフードに寄り道して開く、二人だけのささやかな慰労会。

「あー、やっと終わったわ。これで平穏な日々が戻ってくるのよ」
「一息つく間もなく中間テストがあるけどね」
「言わないでっ! 今日くらいは解放感に浸っていたいのっ!」

 耳を塞いで身をよじるアスカにカヲルが笑う。しかし目が合うと彼は微妙に視線を泳がせ、彼女は僅かに頬を染めて俯いた。ハンバーガーやポテトを食べながら当たり障りのない会話を繰り広げるも、二人を包む空気はどこか違っていた。
 店を出ると、そこだけ切り抜いたような月が空に輝いている。頬に触れる風は少し冷たい。実行委員会の初会合の日はまだ夏の名残もあったが、今帰途を辿る二人の目につくのはコスモスやマリーゴールドといった秋の花ばかり。着衣も夏服から冬服に変わっている。
 流れ過ぎた時はしかし消え去らず、ひそやかに堆積していった。

「「……あのさ」」

 アスカの家まで残り半分ほどになり、それまで続いていた話題が途切れた次の瞬間、二人の声が重なった。思わず顔を見合わせる。

「あ、あんたから言ってよ」
「いや、遠慮しなくても」
「誰が遠慮なんて! じゃ、じゃあ、先に言わせてもらおうじゃない」

 勢い込みはしたがなかなか言葉が出てこない。息を吸っては吐いてを何度も繰り返してから彼女はようやくそれを口にする。

「こ、これからも時々は……こうして送りなさいよ……」

 滅茶苦茶な心臓の暴れように気が遠くなりかける。「……うん」と返事が返るまでの時間が果てしない長さに感じられた。

「僕もそういうことを言うつもりだったんだ」
「そ、それは奇遇だわね」
「本当にね」

 アスカの声は上擦り、カヲルの声は笑みとともに若干の緊張も孕んでいた。

「僕としては、時々ではなく毎日でもかまわないんだけどね」
「遠回りでも……?」
「かまわない」
「なら……そうすれば?」

 あまりに希望通りに話が運びすぎていて、逆に彼女は不安を覚える。
 もしかしたら誤解でもされていないだろうか。だとしたら傷の浅いうちに解いておきたい。

「……念のために言っとくけど、好きだってことだからね?」
「うん、分かっているよ。……僕もだから」

 手にそっと触れてきた指先に、やっと安心出来てアスカはきゅっと握り締めた。