『アスカ、これいらない? 映画のチケット。ノゾミと行く予定だったんだけど、あの子熱出しちゃって寝込んでるの。私だけ行くのも悪いし……。期間は明日までだから、よかったら誰かと観に行けば?』 そう言ってヒカリがくれた二枚のチケット。好きな役者も出ていなくてアスカはスルーしていた映画だったが、タダで観られるのなら断る手はない。 誰と観に行くか――。 彼女の脳裏には一人の人物が浮かんで消えなかった。 ぶつかる春 途中まで一緒だった友人達と別れて家路を辿っていたカヲルは、待ち構えていたように角から姿を現した少女に目を丸くした。 「惣流? こんなとこで何やってんの?」 アスカの家は全くの別方向である。偶然出くわしたとは考えにくい。 だが彼女はそれには答えず、黙ってチケットを突き出した。 「……映画? どうしたの、それ」 「明日の九時半、駅前に集合。遅れるんじゃないわよ」 「九時半かぁ、ちょっと早いけど……まぁいいや、了解」 ひょいとつまみ上げるようにして彼はチケットを受け取る。 「そのためにわざわざここで待ってたの? 学校で渡してくれればよかったのに」 「そうもいかないわよ。他の連中の分はないんだから」 「え?」 カヲルの口から頓狂な声が上がった。想像していたものとは何やら違うらしいと察し、にわかに慌てる。 「あれ? みんなで行くんじゃないの?」 「みんなじゃないわ」 「僕の他には誰が行くのさ?」 「あたし。あたしと渚の二人だけ」 「君だけ!? 何で!?」 アスカは唇を引き結んだまま答えない。その表情は厳めしくさえある。 普段と違いすぎる彼女の様子に、カヲルが訝しげに眉根を寄せる。 「……どういうことさ?」 「貰ったのは二枚だけだったから」 「いや、そうじゃなくて」 言い募る代わりに彼は質問の仕方を変えた。 「……何で僕なの?」 「あんたが――」 聞かれるだろうとは予測していたため、答えは既に用意してあった。 しかしアスカはそれを口にする時、若干の迷いを覚えずにいられなかった。 「……一番暇そうだからよ」 言いざま、くるりと背を向け、じゃあねとも告げずに彼女はその場を立ち去った。 カヲルが転校してきたのは去年のことで、この春からもアスカと彼は同じクラスになった。 共通の友人がいるため、話す機会は割合多い。 しかしその大部分は口喧嘩。 二人の関係を表す事項はそれくらい。 「……つまんなかったね」 映画館を出るなり率直な感想をカヲルが漏らす。アスカも深く同意した。ヒカリは結果として観なくて正解だったろう。 「展開が全部都合よすぎよね。演出も変だったし。あんなの作って恥ずかしくないのかしら」 「これなら別のことをしてた方がよかったな」 「……そうね」 来なければよかったかもね――。胸に小さな痛みを覚えながら、彼女は声に出さずに呟いた。 時刻は十二時を回っている。上映中にジュースを飲みはしたが、軽く空腹を覚えた。 「今話題のカフェがあるのよ。向こうの公園を突っ切れば早いはずだわ、行きましょ」 返事を聞く前にアスカはさっさと歩き出す。カヲルもややあってから彼女に続いた。 休日とあって、公園には親子連れやカップルが多かった。散策したり噴水の近くで遊んだりと、思い思いに楽しんでいる。 早くも初夏を思わせる暖かな日差し。鼻腔を優しくくすぐる土の匂い。鮮やかに咲き誇るチューリップ――。そんな清爽とした気に満ちた空間で、二人の周りだけが重く澱んでいるようだった。朝から、いや、昨日の時点からずっと硬い表情を崩さないアスカに、カヲルは時々目を遣っては憂鬱そうな溜息をつく。そのたびに彼女は唇を噛む。ぎこちない雰囲気だった。 と、不意にカヲルが道から逸れる。何事かと戸惑うアスカにかまわず、芝生に入っていって屈み込んだ。 「四つ葉ってさ、幸せを運ぶんだってね」 「え? あぁ、クローバーね」 確かに芝生一面に生えていた。 「見つけたことないんだ、僕。君は?」 「うんと小さい頃なら多分あったけど、今じゃ探しもしないわ」 「ふうん」 無表情に生返事だけ返して、彼は一つ一つクローバーを調べ始める。 とりあえず待ってみるアスカだったが突っ立っているだけでは所在もなく、段々と焦れてくる。そもそもご飯を食べに行く途中ではないか。 「ねえ、早く――」 「あった」 急かすのをちょうど遮るタイミングでカヲルが声を上げる。引きちぎった茎を眺める顔には、満足そうな色が微かに浮かんでいた。 「よかったわね……じゃあ行きましょ」 「まだだよ。君の分を見つけてない」 「え……」 再び彼は芝生に向き合う。やめろとも言えずアスカはただ、草の上を這い回る銀の髪をぼんやり見つめた。 ――最初に見つけた方をくれようとはしないんだ……。 気の利かない奴だとつくづく思う。 彼女がわがままならカヲルはマイペース。時も場所も常識も顧みず、やりたいように振る舞う。きっと昼食も割り勘にするのだろう。映画館でジュースを御馳走もしなかった男が食事を奢るとは考えにくい。 それでも―― 「あったよ、ほら」 思考が中断される。 立ち上がったカヲルが四つ葉のクローバーを無造作に差し出してきた。 「あ、ありがと……」 両手で受け取ったそれを彼女はじっと見つめる。感慨に耽っていたため、続く言葉への反応が遅れた。 「じゃあ、帰るよ」 「……え?」 見上げた先にあったのは、口の端が歪められた彼のシニカルな笑み。 「帰るって、これからカフェに……」 「行かない。君一人で行けばいい」 強く拒絶する響き。 「……つまんないんだろ? 僕といても」 冷水を浴びせられたような感覚がアスカを襲った。 硬直している彼女に向けて、カヲルは毒の篭った言葉を吐き続ける。 「全然楽しそうじゃないし、ろくに喋りもしない。何かの罰ゲームだったわけ? だとしたら御苦労なことだね。でもこれ以上付き合ってやるのも疲れるしさ、帰るよ。じゃあね」 皮肉たっぷりに笑ってみせて、彼は来た方向へと戻っていく。しかし擦れ違う一瞬、その表情に翳が差し、聞こえるか聞こえないかくらいの苦い呟きが落ちた。 「……最初から誘わなければよかったのに」 物も言えずにいたアスカの呪縛がようやく解かれる。 遠ざかろうとしている背中を振り返り、 「――ちょっと待ちなさいよっ! 黙って人が聞いてれば、勝手に勘違いして話を進めてくれちゃってさっ!」 叫んでその足を止めさせた。 「勘違いって?」 胡乱げに見返されるのを悲しく思う間も惜しみ、つかつかと彼のすぐ前まで歩み寄る。 「楽しそうにしてないからって、つまんないんだろうって決め付けないでよね! 上手く振る舞えないだけってこともあんのよ!」 柄にもなく緊張していたのだ、朝からずっと。 正確には、昨日の放課後の時点から。 「暇そうだから誘ったって話を信じてんじゃないわよ、このバカ!」 はっきり言わなければ分からないというなら、覚悟を決めて言うしかないだろう。 「……から」 「何?」 意地悪ではなく、か細すぎて本当に耳に届かなかったらしくカヲルが怪訝そうに聞き返してくる。俯きがちになっていた顔を思い切って上げ、アスカは今度こそはっきり告げた。 「あんたが好きだからっ!」 言ってしまった――。たちまち恥ずかしさでのた打ち回りそうになる。体温が急激に上昇していた。 しかしカヲルは胡散くさそうな表情を全く変えない。 「ホントに?」 「嘘ついてどうすんのよ!」 「じゃあ、何で喧嘩腰なのさ」 「あんたがそうさせてんでしょ!」 大体あんたは、と一通り文句を並べ立てそうになってアスカは慌てて言葉を呑み込む。 いつもこんな調子だからいけないのだ。誤解を招いてしまうのだ。 伝えたいことは、逃げも誤魔化しもせずに伝えなければ。 「……好きでもない奴を誘ったりなんかしないわよ」 さすがに真っ直ぐ向き合いながらは無理だったので、彼の手にあるもう一つのクローバーを代わりに見つめて、素直な気持ちを吐露していく。 「あんたと行きたいって思ったから……一緒に過ごしたいって思ったから……」 みんなとではなく、二人きりで。 「でも、そんな正直に言うのは照れくさいじゃない? だから……」 適当な理由をこしらえてみたのだ。 彼にどう受け取られるかまでは考えず。 「その……だからね……」 頬が熱い。舌がもつれて上手く動かない。 それでも自らを奮い立たせて伝え続ける。 「ご飯を食べるくらい付き合ってよ……。あと、クローバーありがと。嬉しかった……」 「……何だ」 安心したような優しい口調に視線が上がる。 「最初からそう言ってくれればいいのにさ」 台詞こそ非難めいてはいても、カヲルは嬉しそうに笑っていた。 現金なものだと少しばかり呆れるアスカだが、口元は自然と綻んでいく。 「あんたみたいに脊髄反射で生きてない分、あたしの言動は複雑なのよ」 「どこがさ。すぐに頭に血が上るくせに」 唇を尖らせて反論しておきながら直後には、 「でも僕も、そんな君といるのが楽しくて好きだ」 などと言い出してアスカを赤面させる。邪気のない笑い声が上がった。 「お腹すいた。早く食べに行こうよ」 「あんたが寄り道したんでしょ!」 「そうだっけ?」 文句もどこ吹く風といった調子で、カヲルは再びカフェの方角へと足を向けた。追おうとしたアスカだがクローバーの扱いに困る。いつまでも持ち続けてはいられない。しかし捨てるなどは以ての外だ。ひとまずバッグから財布を取り出し、その中にしまう。家に帰ったら押し花にしようと決めて。 幸運を運ぶ四つ葉のクローバー。思えば彼は、何故急に探し始めたのだろう。アスカの分まで。 ただ帰ってしまうのが嫌で、せめて今日の記念になるような物が欲しかったのだとしたら、彼女の嬉しさは倍増する。それにもしも――もしもだが、あんな映画を観るくらいなら別のことをした方がよかったという発言も、二人で一緒にという意味だったなら――。 憶測にすぎないと思いつつも胸を弾ませている間に、カヲルは一人でどんどん先に進んでいた。と、何かに急に気付いたように立ち止まり、アスカの耳まではっきり届くくらいの大声で「ねぇ」と尋ねてくる。 「これで僕達、恋人同士ってことでいいのかな?」 |