教室にぽつり、と一つの影が落ちている。
 その影の主は、手に持っていたモップを掃除用具入れに無造作に押し込むと、やっと嫌な業務から解放されたという気持ちを吐息として表した。

 いくら自分に多少の非が有ったとはいえ、一人で教室の掃除とは彼にとっては頂けない。……なにより、他の共犯者には上手く逃げられたという事が、そういった反抗心を更に煽っていた。

 教室を一回り見渡して、それから思い出した。いつも、共に下校している彼女はどうしたであろうと。
 流石にいないか、とすぐに思った。一緒に帰るのはいつもの事ではあろうが、一緒に帰ろう、と今まで言葉として投げかけた事がなかったからだ。

 いつも、己が勝手に後ろに付いて歩く形から、並んで一緒に帰るように仕向けているだけなのだから。

 面白く無さそうに眉を寄せて、自分自身の机の方へと歩いていく。
 好くない気分に気持ち全てを持って行かれていたので、鞄を持って帰ろうした所になっても、その後ろから近づいて来たもう一つの影に全く気が付かなかった。
 その影がとんっ、と後ろから突然抱きついてくると、彼はおっと…、とよろめいた。
 不意は突かれたものの、一歩足を踏み出しただけで辛くもその場に踏みとどまる。
 胸の前に合わされた手のひら、彼の好きな匂いとよく知る温かさを感じて、嬉しさに口元を綻ばせた。顔を後ろへと向けてみると、なにかしらの思惑が外れたらしい、不機嫌に染めた彼女の表情が瞳に映る。

「どうしたの?」
「………。こーやって、後ろから抱きついた時のあんたの反応でも見てやろうと思っただけなんだけど…」

 彼女はただ、思いついた事を衝動的に実行しただけらしい。彼女らしくない、あとの事を一つも考えなかった大胆な行動に、今更恥ずかしいとの気持ちが頬に表れている。

「…それで、どう?」
「全ッ然、面白くない。……演技でもいいんだから、ちょっとくらい驚きなさいよね」

 折角驚かしてやってんだから…、とこちらから頼んでもいない筈なのに、そういった非難の言葉が続く。
 だが、彼女が注文している事を実行してみせれば、その時は「白々しい演技すんじゃないわよッ それならいつも通りしれっとしてなさいよ!」と怒るくせに。
 彼は肩を竦めて見せた。

「これでも結構、驚いた方なんだけど? ほら、君から僕にココまで近づいて来た事なんて殆どなかっただろ」

 顔には出たのだ。ただ、その後にすぐ飛びついてきたのがアスカだと気が付いたせいで、その表情が一気に引いて、嬉しい顔が満ちただけ。
 そう言っても信じてくれないだろうから彼は一つも触れず、代わりに、ところで……、とだけ言って、言葉を区切った。何よ?、とまだ不満な顔を向けて来る彼女に、彼は意地悪く微笑んだ。

「……君はまだ、こうして僕に抱きついていてくれるの?」

 え、と意味のわからない呆けた顔から、ハッと我に返る顔。一瞬のうちに表情をころころ変える彼女の、彼の脇を通って前で合わされている手を掴んだ。
 ぐっと前に引かれてたので、彼の背に身体を押し付けるような形になる。今度は赤い顔。

「か、カヲル!? ちょっ、ちょっと、何すんのよ!」

 慌てた声に、ふふっと弾んだ声で笑うと、カヲルは彼女の片手を離して二人の間に小さい空間を作る。その場で回るようにして振り返った。
 掴んだままだった片手を反対の方の手に持ち直すと、また強く引いて彼女を己の胸元に引き寄せた。ぎゅっ、音が聞こえてきそうなくらい強めに抱きしめる。

「な……なな…?」

 正面から抱きしめられたアスカは、驚きに口をぱくぱくと動かす。すぐに言葉が出てこなかった。

「…ッ ちょっと! ああああ、あんたはさっきから一体何してんのよ!」
「ちょっとくらいならいいだろ? ……逃げられた人の分まで罪を被ったんだから、このくらいのご褒美くらいは欲しいんだけど」

 匂い、温かさを確かめるように、アスカの首筋に顔を寄せる。心地好い温度にちょっと気持ちが和らいだ。
 他方、彼女の方はというと。細かい鼻息がくすぐったくて、歪みそうな唇を噛み締めていた。

「…バカ……くすぐったいんだけど…」
「わかってるよ。……もうちょっとだけ…」

 掠れた声に混じる、酷く安心しきっている響きを見つけると、アスカは眼下にあるカヲルの銀の髪を見つめる。
 ぽん、と次に背を軽く叩いた。

「仕方ないヤツね。……もうちょっと待っててあげるけど、今度遊びに行く時は待たせた分だけ何かおごんなさいよ?」

 カヲルの口の端が緩んだ。ふふっと零れた声にも気が付かず、アスカは廊下の方へと顔を向ける。
 教室が、窓から差し込む傾いた日の色で、赤く染まっている。その中に、二つの重なっている伸びた黒い影。
 その一つが、もうひとつの影を伝って不意に動いた。耳元に温かい吐息が掛かると、アスカはぐっと目を閉じた。



伸びた