ドアを閉めた途端、はぁーっと長い吐息が出て来た。ドキドキ、と早い胸の鼓動が収まらない。 頭を振り、細い廊下のすぐ突き当たった階段を下りながら、アスカはさっきまで彼の手が触れていた脇の腹辺りに片手を当てる。 まだ触れられているような感触が残っているが、実際はやはりそうでもないので、感じたのは自身の手のひらだった。 手を離して、少し虚しさを感じながらキッチンに入ると、棚から二つのコップを、冷蔵庫からお茶と氷を取り出す。コップに氷を入れ、お茶を注ぐ間もずっと、アスカは想いに耽っていた。 ……カヲルの事だった。 彼は好きだ、と言ってくれる。小さい時から何度も何度も。 彼女も彼の事がずっと好きだ。だから、幼い時はそれは正直に「あたしも!」と言ったりしたし、逆に自らが先に好きと言ったりもした。 …だけど、彼の『好き』、はどういう意味での好きなんだろう? 昔はそんなことを思った事が無かった。言葉の中に含まれている意味など考えなかった。 ただ、カヲルはアスカが『好き』で、アスカはカヲルが『好き』だという事、それだけでよかったのだ。 ……だが、今は違う。 友達、幼なじみ以上の想いを抱いていて、その、幼なじみ以上の繋がりが欲しかった。 彼の傍に居たい、あたしの傍に居て欲しいと願っている。 時折するように、頭を撫でて欲しい、叶うなら抱きしめて欲しい。もっと触れて欲しい。自分だけを見て欲しい。他の子なんか見ないで、あたしだけを……── ふ、と我に返って、頬が熱くなった。自身の、ここまで彼を求めている素直な気持ちに顔から火が出そうだ。思いを払うかのように、頭を強く、左右に振った。 少し考えに耽りすぎていたようで、二つのお茶の入ったコップの表面に水の玉が浮き出ていた。それを近くに掛けていたタオルで拭うと、おぼんに乗せて早足に階段へと向かって行った。 部屋に入ると、カヲルは彼女が出て行く前に見た時と同じ寝転んだ体勢で、顔だけを伏せていた。 ドアを静かに閉じ、彼と頭の近くまで近づいてから腰を降ろす。かちり、とコップに入った氷の触れ合う音、微かな布すれ、足音のいずれかで気が付いたのかは分からないが、彼は大儀そうに顔を上げる。 「……アスカ」 虚ろとした、寝ぼけ眼でこちらを見上げてくるカヲル。アスカはおぼんを床に置きながら呆れたように目を細くした。 「……あんたもしかして、寝てたわけ?」 「ああ……夢を見ていたよ」 「この短時間で?」 床に手を突いて起き上がるカヲルから少し距離を取ろうと腰を上げ、向かいに座りなおした。 ……何気なく彼を見ると視線が搗ち合う。どきりとして顔をふい、と背けた。 途端にふふっ、と弾んだ笑い声が聞こえる。 「照れているのかい? ……そういう所も、可愛くて好きだよ」 ……本当に、心臓に悪い。 「ッ! バカッ 違うわよ! 照れてなんか無いわよ! 大体、照れる理由がないでしょうが!!」 ばっと向き直ると、多少は手加減をした、だが風を切る早いストレートを見舞おうと拳を上げる。が、頭を傾けそれを簡単に避けられた。ぱしっ、と不意にその手首を掴まれる。 驚く暇もくれずにそれを引かれたので、簡単に身体が彼の方へと傾いた。 「きゃ…!」 「……おっと、と」 少し勢いがついていた為か、アスカはカヲルを押し倒すようか格好で倒れこんだ。頬に彼の横髪が触れ、吐息が掛かった。……とても近い所に、カヲルが居る。 「……もうッ! このバカバカ、大バカ! 手ぇ引くくらいならしっかり受け止めなさいよ! バカ!!」 動揺を隠そうと大きな声で怒鳴りつけ、起き上がろうとした。が、彼の腕が背に回っていて、動けない。ぎくり、として身体が強張った。 「…………ちょっと……カヲ、ル…?」 「昔の夢を見たんだ」 弱弱しい声に答えたのは、滅多と聞けない、酷く静かな声だった。 「僕達の小さい時の夢さ。君が僕のところに駆けて来て、僕の手を引くんだ。今から、遊びに行こうって。君に連れられて、近くの公園で砂だらけになるまで遊んで、そのあと君の家に行って。……そんな、昔の事を、だよ」 言葉が残らず、宙に溶けていくような儚い響き。寂しそうに聞こえるのは、アスカの気のせいだろうか。 「……懐かしいわね。そんな事も…あったわね」 「あの時は暑い事より、今している事にだけ集中していただろう? だから、すぐ隣で横になっても、暑いとか喉が渇いたとか考える前に眠ってしまっていたな…」 アスカからくっついて寝ていたその時のことを、どうやら夢で思い出したらしい。だが、彼はそれ以上の事は言ってこない。 それがとても、気に掛かった。…どうして、そんな話をするのか、と。どうして……こうやって、抱きしめているのか、と。 問いかけたいが、訊けない。言えない。 彼がすぐ近くに居るから。 布越しではあるが、彼の体温を感じて、頬の熱が全く引かないから顔も上げる事が出来ない。 だが、それより……水を差すマネをしないでこの状態で居たい事が、本当の理由であった。 …まだ、この心地好いところから、離れたくない。 「……このまま、眠っても構わないかい?」 彼の意図がわからなくて思考が停止する。気持ちは決まっているが、言葉が奥の方で引っかかっているかのように、声が出なかった。 が、身体は正直なもので、反射的に頷いていた。 「……ありがとう」 カヲルの大きめの手のひらが触れてくる。まるで、恋人同士でそうするかのように、優しく、優しく髪を撫で、滑っていく。 このまま、時が止まってしまえばいいのに……と思った。 もし仮に、この想いを告げたとして。 彼も同じ気持ちでいてくれたのなら、それでいい。こんな事をしてくるのだ。可能性だって、そう低くはないかもしれない。 だが……だがもし、彼女の一方通行だったら? 彼は、首を横に振るだろう。優しいから、傷つけないように、いつもの笑みを浮かべているかもしれない。 そして、言うのだ、「ごめんね」と。彼が悪いわけでないのに、自分が悪いんだというように悲しげに顔を歪めて、謝るのだろう。 それから……もう、こうやって近くに居てくれなくなるかもしれない。辛いから、自分が距離を取るだろうし、彼もそれに合わせてくれるのだろう。 いや、もしかすると、それでも今と変わらずに接してくれるのかもしれない。自分が距離を置いても、それにぎりぎりまで近づいてくるのかもしれない。傷つけた分を埋めようとして。 ……どちらにしても、アスカには辛過ぎる。 抱きしめてくる理由も、優しく触れてくる理由も聞けず、アスカは叶わぬ願いをココロに留めながら、瞼を閉じた。気持ちが、暗い方へと沈んで行くのが、あたしらしくない、と思った。 上下の感覚の分からなくなってきた、夢とうつつの狭間にまで来た時、声が聞こえてきた。 ……ぷつり、と途切れそうな意識の中に、聞きたかった意味のこもった言葉が溶けて広がる。 君の事が 『好き』 だよ…
とある夏の日
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